原点は人と人(2)


 復旧がもの凄い勢いで進み、各地の被害状況も詳細に伝えられるに至って、震災当初、私が感激を込めて書いた、通りすがりの人と自然に会話が始まる喜びは、急速に消滅しつつある。他人にとことんよそよそしい、以前どおりの日本だ。

 個人の人間関係は相変わらず新鮮である。この二日間、何人かの知人から電話をもらった。例えば昨日は、元同僚、現在、新潟県で高校の教員をしているS氏が電話をくれた。声を聞くのは15年ぶり以上である。今日は、山形県のOさんから電話があった。私が名取市で小学生だった時、上山市との生徒交流会で山形蔵王坊平高原にキャンプに行き、ボランティアの高校生として世話になった方である。高校時代までは、よく行き来していたが、その後は「年賀状」だけの付き合いになってしまっていた。声を聞くのは30年ぶりくらいだろう。震災当初は電話が非常につながりにくく、何回も電話をしてはつながらないのであきらめ、もうそろそろいいかと改めて電話をしたらつながった、というのが、震災から2週間を経ての安否確認の事情のようである。

 毎年12月になると、年賀状だけの付き合いになってしまった人に対して、今年も年賀状を出すべきかと迷うことがある。私の人生の中で、この人の役割はもう終わったのではないか?と思うこともあれば、相手にとってもうっとうしいだけではないのか?と思うこともある。しかし、今回、結び付きの糸を切ってしまわないことは大切な意味のあることなのだ、と思った。電話をもらえば、「過去の人」といったしらけた気分は一切起こってこない。ただひたすら、感謝と愛情にも近い懐かしさがこみ上げてくるばかりだ。「懐かしさ」と書いたが、これはセンチメンタリズムではない。昔から続いていて、今も共に生きる人間関係として意識されるのである。

 一方、今日は本当に哀しい知らせに接した。仙台一高山岳部のOBで、その人間性を私がこの上もなく敬愛していた若者・N君(35歳)が、震災の犠牲者として遺体で発見されたという知らせである。消防署員として、よりによって閖上に勤務していた。津波の時、消防車に乗ったままで波に呑まれた、状況から見ると生存の可能性はない、と聞いてはいたのであるが、いざ事実としてそれを突きつけられると、なんとも悲しい。今年2月11日に、生徒を引率して一緒に泉が岳に行った。私は、彼と山行を共にした最後の人間になったのかも知れない。今時の若者としては珍しく、と言えば語弊はあるかも知れないが、年配者に尽くし、自分より若い世代の面倒もよく見ていた。惜しい人物を亡くしたものだと思う。

先日、今回の震災でも特に被害の大きかった女川に住む元同僚・Kさんからメールが来た。そこには、「生き残りました。着の身着のまま逃げました。神は何を怒り狂っているのだろうか?不思議に分かるような気がするのです」とあった。私にも、分かるような気がする。しかし、神の怒りは不公平だ。怒るべき相手だけを狙うのではない。八つ当たりである。N君の死を聞いて、そう思った。