J・S・バッハの教会カンタータ



 今年度、せっかく(?)信条に反してマイカー通勤を余儀なくされたのだから、何かまとまった音楽の聴き方をしてみようと思った話は、既に書いた(昨年7月21日)。そんな私が、この半年近くに渡って取り組んできた作業がある。それは、私が所有する最大のCD全集『作曲年代順による、バッハ教会カンタータ全集』(ヘルムート・リリング指揮、ゲヒンゲン聖歌隊シュトゥットガルト・バッハ合奏団他:CO-3901~3962)全62枚=193曲と二つの断片を順番に聴き通す、という作業である。

 購入したのは20年余り昔である。ヨハン・ゼバスティアン・バッハの様々な曲の原型が多数含まれていたりするので、ほとんど辞書のような使い方をしながら、大部分を聴いたのは確かだと思うが、果たして全曲を耳にしたことがあるのかというと、甚だ怪しい。毎日15分×2回というささやかな時間ではあるが、編成が小さいため、エンジン音に音が埋もれてしまったりしないし、1曲が15〜35分で、片道または往復1曲、しかも各曲が数個の楽章に分かれていて中断しやすい、といった特長から、通勤時の「ながら聴き」に最適と考えたわけである。この全集には、歌詞を含めると570ページという膨大な解説書が付いている。通勤時のみならず、一人で車を運転する時には常に、その日聴く部分の解説を読んではカンタータを聴く、という作業を続けてきた。

 始めたのは昨年11月5日であった。そして何と、地震のあった3月11日に、CDデッキの中には最後に当たる62枚目が入っていた。解説書は助手席に載っていた。車は津波ダッシュボードまで水没した。

水が引いた後、私が真っ先に行ったのは解説書の回収であった。CDも取り出したかったが、容易には取り出せそうになかった。詳細を長々とは書かないが、解説書は完全に水に漬かったにもかかわらず、案外ページの内部まで水は染みておらず、3日ほど干して、何とか使えるようになった。CDは、23日になってようやく、水産高校の誇る技術者部隊にデッキごと取り出してもらって回収した。

 3月26日、自宅で一人きりになった時間に、私は、第62枚目(3曲と二つの断片を含む)の、まだ聴いていなかった1曲と二つの断片を聴いた。

音楽も演奏も、本当に素晴らしかった。バッハという人は、非常に早い時期に作曲技法を確立させ、その後、人間離れしたペースで完成度の高い作品を書き続けた「職人」だ、というこれまでの認識を新たにした。彼が、本当に純粋な信仰心から教会カンタータを書いていたのかどうか、私はよく分からない。しかし、そもそも『聖書』という本は、人間というものの普遍的な姿を描き、善悪を問わず、ありとあらゆる感情を内包しているが故に、永遠のロングセラーたるにふさわしい名著である(1999年3月1日の記事で少しだけ触れた)。信仰心など無くても、読む上で何の支障もない。そのような『聖書』の性質が、バッハの宗教作品にはそのまま反映されている。

 リリングの演奏は、教科書通りで面白くない、という意見もあるやに聞くが、私はそうは思わなかった。バロック音楽の命とも言うべき通奏低音はメリハリを持って生き生きと響き、それに載って実に人間的で温かい音楽が作られていた。オリジナル楽器による演奏が主流となる中で、現代楽器を使って演奏したことのマイナスなども存在しない。表現されるべき「精神」に比べれば、どんな楽器を使うとか、何人で演奏するとか、どの楽譜を使うとかいったことは、全て衒学的な些事に属する。

 以前、「アインシュタインモーツァルトはどちらが偉大か?」という議論を聞いたことがある。答えは「モーツァルト」だ。なぜなら、相対性理論のような科学的知識は、アインシュタインがいなかったら、多少は遅れたかも知れないが、必ず他の誰かによって発見されたはずであるのに対して、モーツァルトの音楽のような「個性」に基づく仕事は、モーツァルトがいなかったら永久に地上には現れなかったはずだからだ。もちろん、「モーツァルト」は「バッハ」に置き換えても同じことだ。4ヶ月半に渡る敬虔で包容力に満ちた温かい音楽に身を委ねる幸せな時間は、これで一区切りとなった。そして今、私は「バッハ」という人がこの世に現れたということに、改めて深い感謝の念を抱いている。

(余談)12月31日にNHKでは、ベートーベンの第9交響曲を放映することが恒例となっている。昨年の指揮者は、ヘルムート・リリングであった。番組の冒頭で、リリングの人と為りが紹介された。その中で、大きな時間を割いて、彼が長年世界各地で「バッハアカデミー」を主宰し、バッハ音楽の普及に努めてきたことが伝えられたが、特に大規模だったものとして、1988年に仙台で行われた「バッハアカデミー」の様子が映し出された。その最後に、「ヨハネ受難曲」を指揮するリリングの映像が流れ、カメラが合唱団に向けられた時、そこに見えたのは若き日の私の姿であった。(ちなみに、この時リリングは「ヨハネ受難曲」の全曲を指揮したのではない。2時間を超える曲をいくつもの部分に分けて、指揮科の練習生に代わる代わる指揮させた上で、終曲だけを自らが振ったのである。)