愛すべき日本人?・・・被災地の治安問題から



 3月17日の『河北新報』に、アメリカのメディアが、大きな災害による混乱状態の中で、略奪も無法状態もない日本の状況を称賛し、その理由についての意見を募集したとの記事が載った。

 確かに治安はよい。商店からの略奪や、自動販売機の破壊、個人宅からの窃盗、車や灯油タンクからの油の抜き取り、といった話は聞いたし、殺人があったという噂も流れたが、殺人は風評だということが明らかになり、その他のことについても、基本的には素人による小規模な作業である。何年か前にアメリカでハリケーンによる大被害があった時の、テレビカメラの前でさえ暴力的に家を破壊して手当たり次第に物を盗むというような事件は起こる気配もない。しかも、電気の復旧とともに、ささやかな不安すら必要ないほどの状態になってきて、風評も耳にしなくなった。物の不足している商店やガソリンスタンド、給水車の前には、寒い中、ほとんど不平も言わずに整然と列を作り、何時間でも根気よく並んでいる人々の姿がある。日本人とはなんと愛すべき人々か、と思う。

 さて、前のメディアの問いかけに対して、視聴者からは、「敬意と品格に基づく文化だから」「愛国的な誇り」といった意見が寄せられたという。果たしてそうだろうか?私は当たっていないと思う。日本人は基本的にいざこざを非常に嫌う、「温和な」若しくは「弱気な」民族なのだ。これを文化と言ってよいのかどうかすら分からない、どのようにして作られたのか分析することをさえ拒絶する感性であり国民性なのである。教室の中でも職員室の中でも、周囲の顔色を窺いながらしかものが言えない、そんな性質が、非常時にあっては秩序を守り、治安を保つ方向へと作用する。

 もちろん、これは良し悪しである。教室や職員室の中に悪者がいても、更には県や国のレベルで暴君が圧政を敷いたとしても、目先の円満を求め、決して立ち上がったりしない。その結果、ただ耐え忍ぶばかりで状況が根本的に改善されることない。思考が相対的で、哲学的に真理を目指すことは出来ない、ということでもある。このことが同じ感性・国民性に基づく。時として素晴らしく、時としてやっかいである。

 これくらい芯の芯まで染み付いた感性は、理屈では解決しない。それが悪く作用する時には、それが良く作用する時もあるのだと思ってあきらめ、良く作用する時には、それが悪く作用する時もあるのだと覚悟する、それしかないのかも知れない。それしかないのだろうか?これは、私にとってなんともすっきりしない問題なのである。