個性と校風

 そういえば、ふと思い出す新年会でのひとコマ。
 向かいに座っていた宮城県ではない某県在住のM君が、子どもを入れたい高校がない、とぼやいた。ははぁ、私と同じようなことを言うなぁ、と思いながら聞いていた。Mさんは、「宮城県と違い、ぜんぜん高校による特色がなくて、まったく偏差値による輪切りだけですよ」と言う。あれれ、私と違うぞ、と思う。私はそんなことを問題にしているのではなく、日本の学校の管理的体質、いや、管理と言うよりも、ベタベタと過剰に世話を焼く体質が嫌いなのだ。中学生の娘には、せっせと「外国の高校に行け」と言っている。具体的な国名も示して、その気になるようにせっせと仕向けているのだが、なかなか首を縦に振らない。
 それはともかく、私はMさんに対して即座に「宮城県がどうかは知らないけど、特色なんて、たいていただのパフォーマンスだから、そんなこと気にしなくていいよ。“特色、特色”って言うんだったら、偏差値による単純な輪切りの方がまだ健全。それに引きずられて特色なんて生まれるんだから・・・。」と言った。隣で聞いていた某大学教授が、「そうだよ。特色なんてパフォーマンスだよ。デタラメなんだから・・・」と威勢よく口を挟んできた。立派な助っ人である。もしかすると、大学もそんなパフォーマンス合戦を強いられて、苦々しい思いを抱いているからこその発言かも知れない。
 思想や感性に基づく将来的な進路との関係で、農業高校、水産高校、工業高校などの専門高校を選ぶのはよい。そこには、産業と結びつけばこその校風が生まれているだろうから。問題は普通科である。
 以前、拙著『「高村光太郎」という生き方』(三一書房、2007年)という本の終章において、私は、高村の「日本画に対する感想」(1913年)という文章から、次のような一節を引いた。

「作家が今の相対境を通り抜けて絶体絶命の境地に到らなければとても駄目である。真の自覚のない人等に個性のあり様はない。例えば、今年の「文展」に出ていた82点の日本画の中で「個性」のある作画というのは一点もなかった。僅かにあるのは「特色」くらいなものである。(中略)個性が脈打ち始めるには、こんな遊戯三昧な処では及びもつかない。煉獄を通り抜けた先の話である。」

 私が付した解説の一部を引く。

「本当の個性は、時代遅れになるとか、人から変わっていると笑われるといった「結果」を気にすることなく、真剣に自分というものと向き合い、一生懸命自分の力だけで考え、行動することによって、初めて外に表れるものだということになります。」

 つまり、真剣ひたむきに生きた結果として、自ずから個性は表れ、人間性は形成される。どのような個性を身に付けようかという結果から思考をスタートさせてはいけないのである。周りの様子をうかがいながら、自分の特色を作ろうとしても、そんなものは個性ではない。人に評価してほしいという打算があるばかりであり、それ故にわざとらしくて嫌らしい。それが人の心を引きつけるなどということがあるわけがない。一方、まわりと同じにしようとしても滲み出てきてしまうその人独自のものというのもあるわけで、それこそが個性だ。その個性は魅力的であると同時に、なぜか普遍的なものになっているはずだ。個別性を突き詰めたところには、普遍性が見えてくるのである。
 校風も同じ。その学校にいる生徒や教職員が、自分たちが本当に大切だと思ったことをとことん追求し続けたところに、自ずから表れてきて止めることができない。それこそが本当の校風だ。
 偏差値(成績)で輪切りにすることが直ちに悪いとは言えない。それぞれの学校は、それぞれの階層に応じて、様々な個性を花開かせ、独自の校風を生むだろう。M君の住む県の教育行政が、その校風をつぶし、あえて偏差値だけを物差しにした、利害打算による教育を目指しているとしたら、それは問題だ。だが、それとて、無理やりに「特色」を作ろうとするのとどちらが悪いかと言えば、打算的であるという意味で同じことである。
 というわけで、M君は心配するに及ばない。どっちみち教育行政が腐っていると思って諦めるか、怒るか、どんな状況下でも個性(校風)は生まれてくると楽観するか、なのである。