バロックトランペット



 「夏休み来客シリーズ」の何人目だったか、8月4日に、かつて同じ合唱団で歌っていたU君が来た。埼玉県から石巻にボランティアとして来て、せっかくだから、と寄ってくれたのである。会うのは25年ぶりに近いと思う。

 もともとが音楽関係の友人なので、家人が寝静まった後、私の所有するCDの背中を見ながら、若干の音楽談義をした。その時、彼が目を止めたCDの一つに、『The Art of the Baroque Trumpet』全3巻(Naxos8.553531, 553593, 553735)というものがあった。これは私の愛聴盤の一つである。

 現在使われているトランペットとは違って、19世紀半ばまではバルブ=ピストンのないトランペット(ナチュラルトランペット=バロックトランペット)が使われていたことは、何かの都合で知っていた。その実物の音を初めて聴いたのは、1987年11月17日、福島市音楽堂で行われたトン・コープマン指揮アムステルダムバロック・オーケストラ&合唱団による『メサイア』の演奏会だった。

 心奪われる美しく柔らかな音色だった。音楽ではない。楽器一つの音で、これほど満ち足りた気分になれることは、経験したことのない出来事だった。トランペットの音が鳴った瞬間に、ホールの中に金色の光が差したようだった。バロック時代まで、トランペットが楽器の王様であったというのは、誠にごもっともなことである。例えば、バッハの楽譜でも、トランペットのパートは最も神に近い場所、すなわち最上段にあるし、ベネチアの何とか言うアンサンブルでは、指揮者(リーダー)の名前は記録に残っていないが、トランペット奏者の名前だけは記録が残っている(と鈴木雅明氏に伺った記憶がある。未確認)。

 ところが、その楽器になぜバルブ=ピストンが付けられたかというと、ナチュラルトランペットは出せる音が限られている(自然倍音列の音だけ)上、演奏が難しすぎたために、作曲家の表現意欲を満たしきれなくなったからである。バルブ=ピストンが付けられたことで、トランペットは素晴らしい運動性能とたくさんの音を手に入れた。しかし、あの金色の音色は失ったのである。

 同じような現象は、18世紀までの楽器と今の楽器を比べると、フラウト・トラヴェルソ(vsフルート)でも、チェンバロ(vsピアノ、いやモダンチェンバロとすべきかな?)でも起こった。運動性能、音量、音域等を拡大するために、音色を犠牲にするというのは、現代文化の性質を考える上で非常に意味深い感じがする。

 さて、ナチュラルトランペットの音色に取り付かれた私は、その後も、仙台では滅多にないチャンスを見つけては聴きに行ったし、録音探しもした。しかし、どうもこのナチュラルトランペットは、録音するとその輝かしい音色が色あせるように思った。ナチュラルトランペットの録音を探すことそのものが難しかったのも、理由のないことではないようだ。デリケートなものというのは、録音(文明)には向かないのであろう。その中で、比較的良いものとして私が気に入ったのが、上記のCDだ、ということである。

 U君が帰ったあと、久しぶりでゆっくりこのCDを聴いてみた。やはりいい。演奏や録音だけではなく、ソプラノと非常に相性のいいこの楽器が、まさにその良いところを最大限発揮できるように選曲されていることもある。また、人間というのは、機械が表現しきれない場合、自分の想像力や体験を元に、不足を補って聴くという技を持っているらしい。もちろん、それによって実際以上の幻を聴かないようにするという自戒は必要なのだけど・・・。