補助動詞は用言!?



 一昨日、宮城県の県立高校入試(前期選抜)というのが行われた。私が頭を抱えたのは、「国語」の第4問、問4である(昨日の新聞に問題と解答例は発表されているから、残念ながら内部告発とか、情報漏洩といったものではない。あまり期待せずに読んでいただきたい)。


 次の文の中に、用言は全部でいくつありますか。正しいものを、あとのア〜エから一つ選び、記号で答えなさい。

 「長いプラットホームには人気はなく、生きものといえばホームのいちばんはずれの砂利の山の上に、女の子が一人、すわっているだけだった。」(「赤毛のアンモンゴメリ作 村岡 花子訳)

 ア 二つ  イ 三つ  ウ 四つ  エ 五つ


 当初私は、「長い」「なく」「いえ」「すわ」で四つだ、答えは「ウ」だな、と思った。ところが、解答を見ると、答えは「エ」になっている。同僚である国語の教員に尋ねてみると、「いる」も用言(動詞)だから五つで、解答は間違っていない、と言う。

 私は、「いる」は補助動詞で、「すわる」という動作の継続を表しているだけなので、自立語とは考えられず、従って用言とは認められないだろう、と反論した。同僚は、それは確かにその通りだが、ルールとして補助動詞も用言として扱うことに決まっており、中学校でもそう教えているはずだ、と言う。隣で聞いていた、昨春中学校から異動してきた体育の教員が大きく頷き、「確かに中学校で私もそんな問題を見たことありますよ」などと言う。

 とまあ、こういうやり取りを紹介すれば、私の無知をさらけ出しただけということになるだろうが、そのような事実を知らされても、私はぜんぜん納得できない。そもそも、単純な話、「補助動詞」は「補助」となる「動詞」なのだから、自立語のわけがない。活用するという文法的な性質も、動詞に意味を付け加えるという働きも、助動詞と同じなのである。用言というのは述語になれる言葉であるが、動詞に意味を添えていて独立した意味を持たない言葉が述語になれるわけもない。以下、ますます私の無知を暴露することになるだけかも知れないが、いろいろと考えてみたい。

 話をより明瞭にするために、例えば古文で、「花散り侍り」という例を考えてみよう。

 「散り」は動詞、「侍り」は丁寧の意味を表す補助動詞である。訳すと「花が散ります」となる。「侍り」はもともと「あり・をり(現代語で言う「ある・いる」)」の謙譲語または丁寧語であって、「伺候する」とか「おります」「ございます」などと訳す。しかし、ここでは「散る」を語る時に、聞き手に対して丁寧な気持ちを表すために働いているだけで、本来の「あり(存在する)」の意味などどうしても認めようがない。動詞「散る」がなければ機能しようなどないので、明らかに付属語である。

 古文と現代文の違いはあっても、日本語としての構造は同じである。だから、仮に「すわっているだけであった」を「座った状態で存在しているだけであった」と理解することが不可能ではないにしても、「花散り侍り」の「侍り」を独立した意味で解釈できない以上、補助動詞としての整合性を保つためには、補助動詞を自立語として扱ってはいけない、ということになる。

 或いは、例えば「なり」という断定の助動詞は、もともと「にあり」という形であったが、それが変化して「なり」になったとされている。この場合、当初は得体の知れない「に」に、(補助)動詞「あり」が付着していたが、いつの間にか「なり」に変化し、活用パターンに「あり」の名残であるラ行変格活用のスタイルを留めることになった。上の入試問題の末尾にある「だった」も、「であった」の変化形であるが、そこに補助動詞「ある」が隠れているとは、誰も言わない。同様に、「すわっている」だって、接続助詞「て」と(補助)動詞「いる」には切っても切れない関係があり、「すわってる」という短縮形を耳にすることも珍しくないのだから、「ている」は存続の助動詞「てる」が生まれる前の過渡的形態と考えることも可能である。「にあり」の「あり」は自立語で、「なり」になると一つの付属語。「ている」の「いる」は自立語で、「てる」になると一つの付属語。これは合理的だろうか?

 つまり、どこからどう考えても、補助動詞を自立語であるとすることは、一種の観念、ためにする学問、言葉の遊びにすぎない。そうすることによって混乱することはあっても、明瞭になることなどないのである。私には補助動詞=自立語(用言)と考えることの合理性が思いつかない。いろいろな人が書いているものを読んでみても、補助動詞はもともと動詞だから自立語だ、というような説明しか見付けられない。既に自立した意味を持たないのに、である。どなたかに納得の出来る説明をして欲しいと思う。そしてそれが不可能なら、補助動詞を自立語と認める学説を撤回して欲しいと思う。

 もちろん、学問には、理屈を言っても仕方のないいろいろなルールというものがあることは、私も知っているつもりである。だが、たとえ補助動詞を自立語とすることがルールとして決まっていて、それを甘んじて受け入れるにしても、それを用言としてカウントできるかどうかを中学生に問うことに意味があるかどうかは別問題である。私は無意味であると思う。・・・ん?案外この問題には、「理屈ではない、学校で教えられたことに疑問を差し挟むなど言語道断、憶えろと言ったことはその通り憶えろ」と、上意下達社会を支える子供を育てるという目的があったりして・・・。