ある優れたコミュニケーション論



 先日、読者である医師の方が学会誌に発表した3冊分の書評を送って下さった。医学書など私の守備範囲にはなりそうもないのだが、その方が外科医や産婦人科医ではなく、精神科医であること、書評の日本語がたいへん平易で読みやすいものであること、また紹介の仕方自体が上手であることなどあって、1冊くらいは読んでみようかという気になった。とりあえず買い求めたのは、岸本寛史『緩和ケアという物語〜正しい説明という暴力』(創元社)である。

 読み始めてすぐに、これは「医学書」ではないということに気がついた。著者がそれを赦してくれるかどうかは知らないが、私はこの本を一般的なコミュニケーション論として、興味深く読んだ。

 著者が語ろうとしているのは、患者と医者双方に「物語」というものがあって、それにズレがある時に生じる問題をどう解決させるのがいいのか、ということである。つまり、患者の側には治療についての希望があり、医者の側にはこうすべきだという考えがある。もちろん、すぐに治癒する病気で治療方法にも選択の余地がなければ、何ら問題は発生しない。ところが、不治の病、たとえばガンの末期というような場合は、延命を取るか、生活の質を取るかというような葛藤が発生する。どの薬を使うかだって、答えがひとつとは限らない。こういった時に、医師と患者の思惑は食い違ってくる。また、症状というのは精神状態によって大きな影響を受けるので、痛みを除去するといった一見純粋に医学的な問題であっても、患者と医師の「物語」の齟齬が、治療の本質に関わる問題となってくる。それらの場合、現在一般に行われているように、医師の見解を「正しい」として、それを患者に伝え、理解し、受け入れさせることだけが果たしていいことなのか?その「正しさ」が、患者の「物語」と食い違う時に、果たして「正しい」から効果的な治療になり得るのか?いくら医学的に「正しく」ても、医師と患者とでともに命や生き方を考える上で、それが「正しい」とは言えない時があるのではないか?・・・著者が抱き、悩み、答えを見いだそうとしているのはこのような問題の処理なのである。

 私のように学校で教員をしていれば、教師=生徒・保護者の関係が、医師=患者・家族の関係と重なり合ってくるのは分かりやすい。だが、そのような特別な関係性がなくても、およそ世の中で複数の人間が関わり合えば、何をするにしても必ず思惑の違いは発生するだろう。そのいかなる場面にでも、この本の中で述べられていることは応用が可能である。

 著者は、「物語」のズレを解決させるための容易で決定的な方法(マニュアル)を提示できているわけではない。様々な臨床事例をちりばめたこの本は、多くの文献を踏まえてはいるけれども、いわば著者自身の悩みの記録でしかない。私は、その点にこそ価値があると思う。人間と人間の交わりの中に生まれる問題には、同じ事例の反復はあり得ない。従って、その解決は元々、事例の安易な類型化やマニュアル作りには馴染まないものなのだ。

 著者は誠実に患者に向き合い、自分自身のやり方の妥当性に対して常に疑いを差し挟みながら、患者にとっての最善を目指している。私たちは、そのような著者の姿勢と衝動とを感じ、部分的には自分に身に起こった事例に当てはめ、そして、著者と同様に問い直したり、ヒントを得たりすることが出来る。この本はそのきっかけとして十分に機能するし、それこそがこの本の正しい使い方であると思った。

 著者は「おわりに」で、「医療者のみならずがん医療に関心のある方にも読んで頂ければ、なお嬉しい」と書いている。それを更に拡大する私の受け止め方は、著者にとっても、むしろ望むところなのではあるまいか?