意味は後から決まる

(2023年9月22日「担任のお話」№20より)


冒頭に9月21日付け「河北春秋」(河北新報のコラム)を貼り付け。以下、それを受けての文章。


 そうそう、昨日は宮澤賢治の命日であった。毎年必ずこの日には、花巻市の「雨ニモ負ケズ」碑の前で、賢治祭というお祭りが開かれる。今どき珍しい商業的な匂いのない、素朴ないいお祭り(集会)だ。
 ところで、「エスペラント(語)」って、高校生は知らないだろうなぁ。記事にもおよその説明はあるが、ザメンホフという人が発明した人工の国際語だ。一応、英単語をベースとしているが、不規則動詞や不定冠詞の使い分けのような文法的例外が一切ないので、身に付けやすいとされる(←私自身学んだことがないので断定的に書けない)。何かと英語、フランス語が幅をきかせる世の中は、それらを母語とする人々にとって有利だし、英米人、フランス人の価値観を押しつけることにもなる。ザメンホフは、あらゆる民族が平等にコミュニケーションを取れるようにこの言葉を作り、その理念に共鳴した相当数のエスペランティストが世界中にいた(いる?)。私が学生時代、大学にはエスペラントを学ぶサークルがあったし、国によってはラジオ放送すら行われていた。現状は知らない。しかし、かなり低調になっているような気がする。
 「河北春秋」は、「世界共通語は理解と寛容を導くだろう」と書く。なにしろ、言語は世界の捉え方を示しているからだ。言い方を変えれば、国際共通語が生まれるということは、世界中の文化が均一化されるということでもある。 ザメンホフは、使われている各国の言葉を全て廃して、エスペラントを世界で唯一の言語にしようと思っていたわけではなく、あくまでも、地域の言葉を残した上で、いわば第2言語としてエスペラントを考えていたようだが、もしかすると、エスペラントが普及しきれなかったのは、それによって文化の地域差が失われてしまうのではないかと、人々が不安を感じたからかもしれない。他の民族を理解することは必要でも、均一化は嫌だ。そんなジレンマを感じる。
 以上、期末考査前に「言語は色眼鏡である」(野元菊雄)の復習でした。


【大復習:人生における決断について】

 ちょっとしたきっかけで、生き方についての若干のお話をした。大切なことなので復習しておく。

 人生は大から小まで、日々決断の連続である。自分の人生は自分で決めるしかない。私は諸君の決断について相談されれば、一人の大人として自分の考えは述べるが、「こうしなさい」と命令することはない。仮に命じるような言い方をしたとしても、暴力によって無理矢理言うことを聞かせたとでもいうのでなければ(ありえん=笑)、それを受け入れるかどうかもやはり自分の判断だ。自分で決めたことでなければ本気になれないし、失敗したと思った時にあきらめもつかない。

「他人と過去は変えられないが、自分と未来は変えられる」(byエリック・バーン

 時間は絶対にさかのぼれないわけだから、学校に入るにしても辞めるにしても、就職するにしても、結婚するにしても、決断を下した以上は、未来に向けてその決断を後悔しないような生き方をするしかない(すればよい)。
 上の言葉に補足して、「過去は変えられないが、(その後の生き方によって)過去の意味は変えられる」とも言われる。確かにその通りだ。例えば、決断だけでなく、何かの失敗をしたとしても、そこから何かを学んでよりよく生きることができれば、その決断・失敗は、自分にとっての誇るべき財産であり勲章になるだろう。人生における出来事の意味は、全て生き方によって後から決まるのだよ。


【その他】
 3週連続の講話が終わった。先週の進路講話の時に、突然作業があり、筆記用具がなくてうろたえた人が多かった(人の話を聞く時にメモを取れるようにして行くのは常識)。それで学んだかと思っていたら、昨日もやはり筆記用具は持っていなかったようだ。学ばない人たちである(ため息)。
 3年生は、昨日までに第1波で就職試験を受ける78名中、64名が受験を終え、既に5名が内定した。私も何人かの面接練習に付き合ったが、試験の翌日に「おかげさまで無事終了しました。ご指導ありがとうございました」と挨拶に来る生徒もいれば、廊下で会っても知らん顔、という生徒もいる。そういう所に「人間の質」が表れる。


裏面:8月15日付け毎日新聞「私のオ(推)シゴト」欄を貼り付け。見出しは、「蚊駆除 研究に汗」「殺虫成分使わない技術開発」。
平居コメント:どこかのエライ研究者の話、というのではない。仕事をする時のモチベーション、努力、アイデア・・・といった問題で、どんな仕事にでも通用する話。