教師と教えること

 夏休み中に、「バーンスタイン コンダクツ バーンスタイン」という安いDVDを買った。タイトルの通り、バーンスタインの自作自演映像である。収録されているのは、ディベルティメント、セレナード、そして交響曲第2番「不安の時代」の3曲。「不安の時代」のピアノは、残念ながらご自身ではなく、C・ツィメルマン
 それらはそれらで面白いのだが、実は、オマケとして収録されているドキュメンタリーの方が面白く、オマケであるにもかかわらず58分もあるそのドキュメンタリーを、私は既に5回も見てしまった。ドキュメンタリーのタイトルは「教師と教えること(Teachers and teaching)」。これは、日本語訳がネットでも手に入るので、そちらを見てみれば、内容自体は分かる(ただし、挿入されている演奏映像がないと物足りない)。
 番組の構成は非常に巧みだ。バーンスタインがニューヨークフィルとともに、1958年から1972年まで行っていた啓蒙番組「ヤング・ピープルズ・コンサート」のうち、第24回「教師たちへの賛辞」(1963年11月29日)の冒頭(白黒映像)を写し、「教師」が主題であることを提示する。
 その後、晩年(1988年の作品なので、収録は1987年か88年=死の3~4年前=60代後半)のバーンスタインへと切り替わる。そこでバーンスタインは、「教えること」と「学ぶこと」は表裏一体だというようなことを語り、自分の恩師を回想する。対象となるのは指揮のクーセヴィツキー、ライナー、ミトロプーロス、ピアノのヴェンゲーロワ、作曲のコープランドだ。
 その間に、今度はバーンスタインから教えを受けた人々が登場し、師としてのバーンスタインを語る。登場するのはL・フォス(この人だけは「友人」と言った方が正しいかも)、小澤征爾マイケル・ティルソン・トーマス(指揮者)、シュミードル(ウィーンフィル楽員)、ツィメルマン(ピアニスト)である。他に、まだ名もなき若い指揮者の卵にレッスンするシーンも挿入されている。
 そして最後は、ヤング・ピープルズ・コンサートの時と同じくブラームスの「大学祝典序曲」、ただし1981年、ウィーンフィルによる新しい映像で終わる。
 つまり、「教師と教えること」というテーマの下、バーンスタイン自身(学ぶ側)と、バーンスタインを師(教える側)として学んだ演奏家の述懐によって、バーンスタインの生涯を両面から実に上手く描いている。なるほど、副題が「An autobiographic essay」になっているわけだ。しかも、挿入されている演奏や指導のシーンがとても効果的だ。中でも、バーンスタインラヴェルのピアノ協奏曲を弾き振りしてるシーンは、いかにも楽しそうに、余裕を持って20世紀の難曲を弾き振りしてしまうバーンスタインの圧倒的な音楽能力を示して強烈な印象を与える。1963年のバーンスタインが、「大学祝典序曲」について語る「大学祝典序曲は学ぶことを讃え、生徒や学校や教師に捧げられた曲です。今夜もその気持ちで演奏します。」という言葉(1988年でも思いは変わっていないから引用されている)も感動的だ。
 学校の教員でも、「生徒から学ぶ」ということはよく言う。教師と言えば「教える」ことを専らにするようだが、決してそうではなく、生徒から受け取っているものも多いということだ。しかし、人間は、職業に関係なく、生きている限りあらゆるものが学習の対象となる。私はよく生徒に「学ぶ人は何からでも学ぶ。学ばない人は何があっても学ばない」と言うが、全くその通りなのである。むしろ、あらゆるものを学びの対象にできるかどうかに、その人の実力が表れる、と言ってもよいだろう。だとすれば、バーンスタインが「教えることと学ぶことは根が同じだ」と言うのも、さほど特別なことを言っている訳ではない。
 だが、音楽、あるいは芸術というのは、才能が決定的にものを言う世界である。才能さえあれば、師などいなくても、高い水準に到達することが可能であるように思われる。実際、優れたピアニストのフリードリッヒ・グルダを始めとして、演奏技術を独学で身につけたと言っている人を、私は何人か知っている。演奏家から転身することが多い指揮者については特にその傾向が強いのではないか?バーンスタインくらいの人であれば、師などいなくても、一流の演奏家になることはできたであろう。
 だが、映像の冒頭でバーンスタインは、師のいない画家や作家はあり得るが、師のいない音楽家はあり得ない、師の影響力は全てに及ぶ、と言っている。真偽は知らない。しかし、バーンスタインにとってそれは真実なのだろう。そして、そのような謙虚さこそが、彼の音楽をより魅力的なものにしているに違いない。「教師と教えること」は面白い。