カルロス・クライバー

 私的に忙しい8月が終わり、ようやく一息ついた。いろいろたまっていた本を読んだり、音楽を聴いたりするぞ、と思い、8月16日に録画してあったEテレ・クラシック音楽館「いまよみがえる伝説の名演奏」という番組を見た。あまり面白いので2回も、である。
 登場してくるのは、カラヤン(1973年、チャイコフスキー交響曲第4番第1楽章)、ベーム(1973年、モーツァルト交響曲第40番第1、4楽章)、バーンスタイン(1979年、第9の第4楽章)、カルロス・クライバー(1991年、ブラームス交響曲第2番全曲)という20世紀後半を代表する指揮者たちだ。大切に保管されていたテープから起こされ、修復された映像はとてもきれい。
 偉大なる指揮者と言うより、偉大なる個性であるとの印象がまず第一だった。誰が一番魅力的かと言われれば、やはりバーンスタインかな。最も強く豊かに、内側から音楽があふれてくる感じがする。あれはやはり一緒に音楽していると楽しいだろう。
 一度、生でステージに接してみたいと、彼らが生きている最中にも強く思っていたのだが、幸か不幸か、それが実現したのはクライバーだけであった。と書けば、「クライバー!?」と驚かれそうである。そう、「幸か不幸か」と書いたのは、彼ら4人のうち1人しか見たことがないと言えば「不幸」だが、指揮台に立った回数が極端に少なく、最も見ることが難しかった「クライバー」を見ることが出来たのは「幸」だったからである。
 私がクライバーの指揮に接したのは、1984年3月3日、ミュンヘンバイエルン州立歌劇場での話で、曲目はJ・シュトラウスの喜歌劇「こうもり」であった。列車の中だったかユースホステルだったかで知り合った、ドイツの某音楽大学に留学中だという日本人から、この日、クライバーが出演する予定があるということを聞き、駆けつけたのだ。切符は立ち席の当日券。通常は売り切れなどないが、クライバーだと気を付けた方がいいよ、とは言われたにもかかわらず、当日券発売開始のわずか15分前に劇場に行き、短い行列に並んだだけで簡単に買えた。3階の指定席である。8マルク(約700円)なり!
 当時、私はオペラなどほとんど聴いたことはなく、「こうもり」はその序曲によって存在を知ってはいたものの、話の筋も含めてそれ以外には何も知らなかった。実際、クライバーの音楽の素晴らしさは、決してよく分かったとは言えない。いくつかの部分で、「いいな」と思っただけである。ただ、これは私にとって強烈な体験だった。私は劇場の雰囲気に酔ったのである。満員の聴衆全員がステージに全神経を集中し、ステージに首を突っ込むかのようにのめり込んでいるのが、全身で感じられた。まったく異様な雰囲気であった。音楽の進行に沿ってそうなっていったのか、最初からそうだったのかは記憶が定かでない。
 クライバーで印象に残っているのは、私は彼の真横に近いような所から見下ろしていたのでよく分かったのだが、指揮をしていると言うよりも、彼自身が、聴衆の一人として心の底から楽しみながらステージを見ているような感じがしたことである。特に、いくつかの音楽が止まっているお芝居だけの場面では、指揮台の上で本当に腹を抱えて笑っていた。演出にどれだけ彼のアイデアが反映されているかは知らない。
 「偉大だが、幸せな音楽家には見えなかった」というのは、2004年にクライバーが死んだ時、ウィーンフィルコンサートマスターであったヴェルナー・ヒンクが語った言葉だ。完璧主義者で、繊細な神経を持ち、リハーサルの際に納得できなければ(あるいはもっと些細な理由で)、演奏会をしばしばキャンセルした。そんな人物像と、その言葉とはうまく重なり合う。それにしても、そんな人がなぜ人が感動する音楽を作ることができたのか?・・・不思議と言う他ない。一方、私がたった1回見たクライバーは、それとはかけ離れていた。
 今回テレビで見たクライバーは、どちらかというと私が見たのと同じ「楽しそうな」クライバーである。心の中にどんな思いがあったかは分からない。人は常に、特に聴衆が見ている本番では、思いをそのまま表情や態度に表すとは限らない。おそらく、クライバーの場合、内面と外面とに相当大きな乖離があったのだろう。なんだか、そんなことを考えていると、楽しそうな指揮ぶりもまた、見ていて苦しくなってくる。いや、それがまた魅力と言うべきなのだろうか・・・。やっぱり私は、屈折のないバーンスタインがいいな。