部活動に休養日を求めるよりも・・・

 先週金曜日の河北新報に、宮城県教育委員会が高校の部活動を対象として行った調査に関する記事が出た。「土日どちらも活動する」と答えた運動部が、中学校では2.5%だったのに対して、高校では37.0%に上ったという。
 そうしていたところ、翌日の毎日新聞で、運動部活動に関するガイドラインを検討するスポーツ庁有識者会議が、中学校での基準を高校にも適用することを了承した、という記事が出た。中学校については、平日は長くても2時間、休日は3時間、休養日を平日1日以上、土日1日以上の週2日以上とする基準が固まっているらしい。
 以前からたびたび書くとおり、私は部活動に対して非常に冷たい人間である。学校の中に本末転倒を引き起こす諸悪の根源といった罵倒の仕方をしている(たくさんあるけど最もベーシックなのは→こちら)。しかしながら、よくよく考えてみると、私が冷たいのは、必ずしも部活動そのものについてではなく、大人が子どものためと称して、主に自分の楽しみのために部活をやらせることについてであると思う。
 例えば、昔の高校球児が、現役時代に実現させられなかった甲子園出場の夢を、教員になって指導者として実現させる、というような場合である。外見上は生徒のため、献身的に動くから非常にたちが悪い。教科指導やクラス指導を中心に考える善良な教員を巻き添えにする罪は重いし、直接であるか間接であるかは知らず、商業主義と結びつき、商業主義を支えることにもなっていく。商業主義を支えるというのは、目先の利益主義に陥るということである。長い時間仕事をし、忙しい忙しいとバタバタしていれば、自分が頑張っているという自己陶酔に浸れるという教員心理も強い。だが、先日、新学習指導要領との関係でも書いたとおり、大人が指導し、活動に責任を持とうとすることは、生徒を管理し、その主体性や自治能力をまったくスポイルしてしまう。たいへん深刻な問題だ。
 私は、文科省ガイドラインにあるように、部活動が本当に生徒の自主的・自発的な活動として成り立っているなら、何も目くじらを立てるつもりはなく、目を細めて見ているに違いないのである。休養日の確保を生徒に勧めることはあってもいいが、強制までする必要はない。朝練だって、1試合150球の熱投だってかまわない。ただし、あくまでもそれは生徒の自発的意思に基づき、拒否する自由もまた確保されていれば、という条件付きである。
 生徒が自主的に部活動運営をするとすれば、それが組織である以上、必ずしも自由でない場面は発生する。その場合、組織が民主的に運営されていれば、不満を持ちながらもその決定に従うことが必要な場合もあるし、勝利第一の根性部活動かレクリエーションの延長かなど、組織の基本方針と自分の求めるものとの間に大きなズレがあれば、辞めて新しい部活を作るというのもありだ。指導者の価値というものを否定するわけではないが、大人は子どもの依頼によって、依頼の範囲で指導すればいいのである。
 部活動をやるにしてもやらないにしても、どの程度やるかにしても、大人がいちいち口を挟むべきでない。部活のやり過ぎで勉強が疎かになれば、部活のやり過ぎを指導するのではなく、勉強が疎かになっている点について指導すればいいのである。スポーツ庁の基準は、部活動が教員の強力な指導の下に行われているという前提で作られる必要悪であるが、本当は余計なお世話である。特に高校ともなれば、やるべきことは休養日を何日設けるかではなく、少しでも大人の介入を少なくさせ、上手くいってもいかなくても、生徒が真に自主的な活動を出来るように環境整備をすることだ。それは、教員にあまり口を挟むなと言うだけではなく、生徒が勝手に何かをやっていて事故を起こした時に、教員が責任を問われなくてもいいように守ることも含む。
 毎日新聞は、「指針を順守したら10代で五輪で活躍する選手は生まれない。夢を奪うことになる。」という山口香(元柔道日本代表)の言葉を引く。10代でオリンピックで活躍することは、多くの高校生にとって目標ではないし、そんなことのために部活動、更には学校がゆがめられていいわけがない。オリンピックでの活躍=国威発揚の底支えをするためのものとして、政治的に学校の教育活動が利用される危険も大きい。それでいて、タテマエは「生徒の夢を育てる!」だ。典型的な競技団体の論理である。オリンピックを目指す一部の例外的な選手のための練習場所は、部活以外に多少の存在を許してあげるから(笑)、オリンピックへ向けて学校を組織することはやめてほしい。実は神谷先生の本(→こちら)によれば、学校内での部活動は、そもそもそうして過熱してきたのである。津波の教訓を伝えるよりも、震災をきっかけに歴史に目を向けよう、と私が言うのは(例えば→こちら)、実はそういうことでもある。