急激な変化は「吉」と出るか?・・・部活動ガイドライン(2)

 何度も言うようだが、私は元々部活動に冷たい人間である。だが、今回のように力づくで活動時間が制限されるとなると、そのことに対する違和感は非常に強い。何事にも正負の両面があるものだが、こんなに急に変化を求めれば、大きなマイナスが発生するのではないか?と危惧する。部活なんて学校生活では「本末」の「末」だ、部活なんて教員の仕事じゃない、と常日頃から言いつつ、活動時間の制限を受け入れたくないというこの矛盾した心理は何なのだろう?と考えて、自分の部活についての考え方がようやく分かってきた気がする。
 それは、2月27日にも書いたとおり、生徒にはできる限り自由にのびのびと部活をさせてやりたい、一方で教員の仕事としては排除したい、したがって、そのために管理者(国や県)がやるべきことは、活動内容への介入ではなく、部活を生徒による自主的活動と明確にし、学校が出来るのは場所の提供だけ、教員は原則として活動に関与しない、よほど特殊な出来事でない限り学校は責任を負わない、と宣言することなのだ、ということである。
 それを確認した上で、今回のガイドラインおよび手引きの問題を少々書いておこう。学校の責任云々という現時点で言っても仕方の無いことは除いて、だ。
 何と言っても大きな問題は、活動時間という末端部分だけを問題としていて、部活動の過熱(長時間化)の根っこにあるものを放置していることだ。
 具体的に言えば、ひとつは、試合についての問題意識が欠落していることである。神谷拓氏の著書(→について)などを読むと、部活動の加熱がいかに対外試合の増加・広域化と連動しているかということがよく分かる。対外試合の現状を放置したままで、各部に活動時間を減らせ、と言ってもダメなのだ。また、対外試合の多さは、私がたびたび問題とする公認欠席(公欠)なる制度とも関係する。
 公欠とは、部活の公式戦など、学校が認めた校外活動に参加するために授業を欠席した時、それを欠席にカウントしない、というもので、おそらく全ての学校に存在する。しかし、それは暗黙の了解事項であって、法的な裏付けはない。つまり、公欠とは言っても実際には「黙認」なのである。学校を休めば、その理由が部活であれ何であれ、勉強に遅れは生じる。引率の教員は自分の授業が出来ない。20年くらい前なら、「自習」と宣言してしまえばそれで済んだが、今は全ての授業が振替である。試合の引率で1日休めば、その日の授業が他の日の負担となってはね返る。練習のための公欠というのはあり得ないので、対外試合を減らさない限りこの問題の解決はない。
 もうひとつ、部活動評価の問題がある。部活動の実績が就職や進学の時の重要な選考要素になるという問題だ。これもまた対外試合とともに、部活の加熱を生んだ大きな要素だ。対外試合は「減らせ」で済むかも知れないが、こちらは難しい。会社や大学が、部活動で実績がある生徒を取ろうとするとすれば、それなりの理由があるのだし、学校の部活ではなく、スポーツ少年団のような校外活動の実績でもいいとなれば、歯止めの作りようがない。どうすればいいだろう?
 そしてもうひとつは、「地域(スポーツ少年団等)との連携」についてだ。これは手引き第8章に記述があるのだが、その表現は曖昧で、どうしろと言っているのかがよく分からない。少し長くなるが、その条文を全て引用しよう。

スポーツ少年団は、子どもたちがスポーツを通して“こころ”と“からだ”の成長を育むとともに、スポーツで人々をつなぎ、地域づくりに貢献することを目的として活動しています。
② 中学校の運動部活動と地域のスポーツ少年団が連携し、同一種目で活動している例が数多く見られます。こうした場合は、スポーツ活動全体の量や強度について考慮し、学校生活や学習とのバランスが保たれるよう十分に連絡・調整を図る必要があります。
③ また、学校の部活動に所属しながら、スポーツクラブや個人レッスン等の学校外の活動を中心としている生徒については、その活動状況を把握するとともに、個々の状況に応じた配慮が望まれます。

 「連絡・調整を図る」にしても、「活動状況を把握する」にしても、主体は学校なのだろうが、外部団体との間でそんなことが可能であるとはあまり思えない。「配慮」とは誰が何をどう配慮しろと言うのか?しかも、相手はいわゆる競技団体の人たちである。「子どものため」という大義名分を立て、無駄な豊かさと暇に任せて、際限のない活動をすることが容易に予想できる。実際、現在のスポーツ少年団は、多く(全て?)の種目で中学、高校の部活動よりも試合数が多い。学校の部活動が制限されてスポーツ少年団が栄えると、公欠こそ無くなるにしても、過熱はより一層深刻になる。
 部の活動時間を制限し、時間に余裕が生まれた時、子どもたちは何をするだろうか?その余裕を利用して、自分の幅を広げるような様々な勉強、遊びをしてくれればいい。しかし、そのためには、自分の幅を広げたい、そのためには何をすればいいか?という問題意識を持っていること、持たせようとすることが必要である。スマホやゲーム機など安易に時間つぶしができる道具を、大人が持たせないという意識も必要だ。
 以上のような様々な問題を放置したままで、活動時間という末端の現象だけに制限を加える、それによって生み出される新たなマイナスを、私は非常に危惧する。
 私は、子どもが自分たちで活動するのなら、加熱もかまわないのだ。そういう時期、そういう心性というのは必要な場合もあると認める。そしてそうすれば、教員の勤務時間の問題、公欠制度、進路実現のための手段化、といった問題は解決する。そのために必要なのは、冒頭で書いたとおり、教育委員会がそのように社会全体に向けて宣言することであり、大人が子どもをおもちゃにしない、商業主義の餌食にしないという意識を持つことなのである。大人の思慮浅い無節操によって、部活動の問題は生まれているのである。