高校野球甲子園予選の岩手県大会決勝で、佐々木投手が登板しなかったことが大きな話題になっている。彼が出たら勝てた、では必ずしもないにもかかわらず、まるで彼が出なかったから負けた、とでも言うような雰囲気だ。学校には250件を超える苦情の電話がかかったというから気の毒だ。本当にみんな暇なんだな、と思う。監督だって、これが大騒ぎを引き起こすぐらいのことは覚悟の上での決断だろう。
さて、この件につき、私はどう考えるか。
ひとつは、「監督」という大人の存在があまりにも絶対的であることを不愉快に思う。それこそ、文科省のガイドラインによれば、生徒が自主的・自発的に行うのが部活動である以上、運営もできる限り生徒の責任で行うべきなのに、「監督が決めたことですから」とまったく無批判に従う。その監督とて、生徒が選んだ人ではなく、学校から与えられた人だ。およそ民主主義の対極にあるシステムであり、意識である。これだから、私はスポーツが嫌いなのだ。
高校生の多くにとって、甲子園は夢の舞台である。後にプロの世界で活躍した人の中にも、甲子園に出られれば、甲子園で優勝できれば、肩なんか壊れてもかまわない、と言っていた人は多い(と思う)。大人として、「それは狭い了見だよ、人生長いんだから、高校野球で燃え尽きるのはやめようね」と諭すことは許される。だが、果たしてそれ以上のこと、つまりは、本人が出たくて、周りもその生徒に実力を認めているにもかかわらず、「出るな」と命ずることは許されるのだろうか?佐々木が投げれば勝てた、という保証が全くないのと同様に、佐々木が2戦続けて投げたら肩を壊した、というものでもない。その人(生徒=佐々木投手と仲間たち)の価値観に従って選択が許されるべきだ。
もうひとつは、トーナメントの問題である。以前からDeNAの筒香選手が言っていたことだが(→こちら)、トーナメント=1度負けたら終わりというやり方は、選手に無理を強いることになる。今回の問題は、過密な日程でトーナメント形式の大会を開くことから来る必然的な問題である。日程をゆったりと取るか、トーナメント以外の方法をとるか、それ以外に解決の道はない。
だが、これだけ多くの学校が競い合い、夏休みのうちにたった1校の優勝校を決めなければならないとなれば、今のやり方しかない。根っこには、神谷拓先生が言うような、「大会の広域化が過熱を生む」という問題があるのである(→参考記事)。今のやり方でも、ぎりぎりお盆前に優勝校を決めるために、授業をやっているうちから大会が始まっている。
すると、次に私が恐れるのは、「公欠」を取ればいいだけだから、もっと早くから予選を始めよう、甲子園(全国大会)の始まりが授業期間中になったってかまわない、という話になることだ。なにしろ「授業が第一」と口では言いながら、実際には「部活より偉いものはない」のが日本の学校である。競技団体の人間には更にその傾向が強い。高校野球を商売のネタにしている人達も同じ。昨年だって、第100回記念とか言いながら、宮城県の場合、斎藤隆の講演を聞かせるために、野球部に所属する全3年生を「公欠」として授業をサボらせたくらいである(→その時の記事)。
とりあえず、文句は言ってみたものの、今の高校野球では監督は神様である。その判断について、しかも後からとやかく言うべきではない。その上で、考えるべきは、あそこで佐々木を投げさせるべきだったか否かではなく、高校野球のチームにおける意志決定はいかに為されるべきか、であり、適切な大会規模や運営の方法はどのようなものか、なのである。