高野連はまず謝罪すべきだ

 今年の春の甲子園、選抜大会の出場校選出を巡って物議が生じている。言うまでもなく、東海地区の代表をどこにするかという問題だ。昨秋の東海大会で準優勝した聖隷クリストファー(静岡)が落選し、準決勝で敗れた大垣日大が、個人の力で勝る、甲子園で勝てる可能性が高いという理由で選出された。私が知る限り、高野連の決定に理解を示している人は皆無で、全ての人が高野連を非難し、聖隷に同情している。
 私も同様。特別な意見を持っているわけではないので、わざわざ書くまでもないと思っていたのだが、「沈黙は肯定」ということもあるし、あまりにも不条理だと感じるので、意思表示だけしておこうかという気になった。
 試合の結果を横に置いておいて、主観的に「個人力で勝る」というのは、本当にひどい話である。体操やフィギュアスケートのような演技種目でさえ、最近は評価の客観性がかなり厳格に追求されている。野球は、強い方が勝つのではなく、勝った方が強いのである。これほど明確、客観的な基準など存在しない。個人力がそんなに大切なら、個人力をチーム力で覆すのは野球ではないことになる。同時にこのことは、野球がチームプレーであることを否定する考え方だ(確か、元大リーガーの上原氏が同じことをどこかに書いていた)。もちろん、トーナメントのどこのくじを引くかといった「運」が、地方大会での結果に大きな影響を与えることもある。だが、「運」は組み合わせ抽選会だけの問題ではない。「運」の要素を排除して、主観的に強弱を決めることなど絶対に不可能だ。そんなことも含めての勝負である。
 かなり昔の話になるが、オリンピックの代表選考会で同様のトラブルが起き、オリンピックもその後、かなり代表選考が改善された。こんな選抜をやっていたら、春の大会の価値を低めることにもなるし、更には高野連に対する不信感の増大にもつながるだろう。
 今回の決定は、どうしても禍根を残す。大垣日大の選手達も、選ばれた当初は嬉しかったかも知れないが、今や気まずい思いが強くなっているのではないか。選考会で示されたという甲子園で聖隷よりも勝てる可能性が高いという評価は、なお一層、甲子園での大垣日大へのプレッシャーになるだろう。それは、励みというよりも、萎縮を生む性質のものなのではないか?
 私は、大垣日大が出場権を返上し、高野連が謝罪して聖隷を再選考するか、今年の春だけ出場枠をひとつ増やすかするしかないのではないかと思うが、どういうやり方をしても気まずい思いは多くの人に残る。部活動が教育活動の一環である以上、非常に良くない事態だ。
 更に言えば、今回の選考の根っこに、甲子園での勝利至上主義がある。なにしろ、選考委員が、主観に頼ってどこが勝てそうかと考えたということは、公平とか公正といったことよりも、「勝つ」ことの方が重いという価値観を持つことを物語っているからだ。
 私なんかは、「そんなことが本当に、公平・公正や頑張った高校球児の気持ちより大切なのか?」と呆れる。「個人力云々・・・」ということも合わせて考えると、健全な人間を育てるための教育であり、部活動であるべきところが、プロ野球予備軍、マーケットとしての部活動になっていることを意味するのではないか。
 仮に、今回の選考結果で甲子園大会を開くにしても、高野連は間違いを認め、心からの謝罪をすべきであろう。「選抜」だから、選考委員会がどんな決定をしようと文句は言うな、というのはあまりにも横暴である。多くの人が負った心の傷と不愉快とを癒やすことは、そこからしか始まらない。