高校野球天の邪鬼

 昨日で、高校野球甲子園大会の代表校が全て決まった。今年は去年より7校増えて56校。そのうち公立はわずかに8校。14.3%に過ぎない。我が宮城県でも、先週の金曜日に高校野球県予選の決勝戦が行われ、仙台育英学園が勝った。一生懸命やっている諸君には申し訳ないが、全県的にこれほど祝福されない勝利は珍しい。育英学園の関係者以外、おそらくほとんどの人が「あ〜あ、結局育英かぁ」とため息をついたことであろう。聖光学院が12年連続出場を決めた福島県では、もっと閉塞感が強いかもしれない。
 強いから嫌われるわけではない。強すぎる存在は、人々の心の中に潜在する英雄願望を刺激し、むしろファンを増やすものである。野球の大谷しかり、卓球の張本しかり、将棋の藤井しかり。
 ではなぜ私立の勝利に、人々はしらけるのか?それは、この勝負をフェアでないと感じているからだと思う。詳細を把握していないところで、憶測でものを言うのも申し訳ないが、まぁ、さほど大きく外れてはいるまい。つまり、甲子園に出るような私学にはたいてい県外出身者(野球留学生)がいる。仮に一人もいなかったとしても、選手を集めるということからして公立とは条件が違う。特待生制度があったり、スポーツ推薦があったり。そもそも、優秀な選手が入りたくなるように、監督はほとんどプロ化していて、全国規模で引き抜きがあるし、専用の球場を持っていて、サッカー部や陸上部に気を遣いながらの練習なんてあり得ない。プロに進んだ先輩も多く、スカウトの目にも触れやすい、などなど・・・。(→参考記事
 人間などというものは、誰を親として生まれるかというところから始まって、最初から最後まで不公平なものである。しかし、その不公平にはどうしようもない部分とどうしようもなくない部分というのがあって、できる限り公平になるように努力する必要はあるだろう。高校野球の世界はまったくそれに反する。
 高校野球の魅力はひたむきさだ、ということはよく語られることであるが、私は果たしてそうかな?と思っている。甲子園などという場所は「市場」である。そこに集まっている高校生が、どれくらいまじめに高校生として教科学習をしているだろう?野球以外のものが果たして何割彼らの頭の中にあるだろう?野球にだけひたむきであればいい、というものでもない。甲子園は文武両道でそれこそひたむきに頑張っている、プロの卵ではない、普通の高校生が活躍できる場所になってほしい。
 そもそも、高校野球がなぜこれほど過熱するのか?おそらくそれは、大人たちが高校球児をもてはやし、マスコミが騒ぐからである。甲子園で校名を売れば、生徒獲得にもメリットが大きい。つまりは商売である。NHKなる公共放送が、日本国民たるもの必ず高校野球は見るべきだ、とでも言うかのように、あらゆる番組に優先して、甲子園の全試合を最初から最後まで放映するというのは異常ではないのか?
 今月の初め(何日だったかは失念)、宮城県大会の組み合わせ抽選会が行われた。例年は主将と顧問が二人で参加するのだが、今年は第100回記念大会だということで、仙台市内の会場に、県内の野球部に所属する3年生全員が集められた。抽選だけではなく、元プロ野球選手・斎藤隆の講演が行われたらしい。
 私は授業に行き、空席の目立つ教室で立腹していた。野球部の生徒が「公認欠席」でいない。たかだか斎藤隆の講演を聞くために、授業なんか受けなくてもいいから集まりなさい、ということである。おそらく、学校には「かくかくしかじかにつき、生徒諸君の出席について特段のご配慮をお願いいたします」という実質「命令」の文書が1枚来ただけで、このような公欠を認めていいかどうか、予め校長会に打診があった、ということもないだろう。みんなどうしようもない、もしくはそんなものだと思っているから、その「依頼(命令)」がいいか悪いかすら考えない。どうしてもみんなを集めたかったら、土日にでもやればいいのである。土日は練習試合で忙しい、平日なら公欠で授業をサボらせればいいだけだから・・・。そういうことだ。学校もバカにされたものである。
 タテマエとしては、何事につけて「授業が大事」と言いながら、ホンネとしては、学校で部活動ほど偉いものはない。それが何より証拠に、学校で定期考査をはじめとするどんな行事があっても、その日に部活の試合が重なっていれば、そちらの優先が認められる。いや、なぜか認めざるを得ない。学校としての主体性はゼロだ。「授業が大事」がタテマエだと分かっているから、教員が授業に最大のエネルギーを費やさない。
 結果がはっきり目に見える人為的な興奮発生装置で、学校の価値観が狂わされていく。何も考えずに見ていれば、甲子園の試合も面白いけれど、いろいろ考えてしまうと見るに堪えない。