「授業時数の確保」についての若干の考察(4)



 昨日書いたとおり、成績のよい子が集まる学校ほど、授業は少なくてもよく、悪い子が集まる学校ほど、授業はたくさん必要だ。しかし、それは、成績のよい子は授業が多いことに耐えられるが、悪い子は授業そのものに耐えられないということと二律背反の関係にある。

 私が、学校の性質に関係なく規則が杓子定規に適用されることを問題視するのは、後者をより一層重視するからである。当然のことだ。いくら彼らにこそ授業(指導)が必要だとしても、小学校以来、「勉強」ということには一切いい思い出のない生徒というのは、何をどのようにやるかに関係なく、「授業」というものにアレルギー反応を示す。彼らがまったくその気にならず、背中を向けていることを、力尽くで押し付けても、いいことは何もないのである。一週間に確保できる時間が決まっている以上、あまり身に付きそうにもなく、やればやるほど彼らの悪い所ばかりが目立ってくるような教科の授業に時間を割くよりは、それ以外の活動の時間を増やし、卒業後の人生に直接役に立つとか、彼らのいい所が少しでも表に出るようにしてあげた方が生産的、というものだ。

 また、現在は、外部講師を招いての資格講習を授業の枠内で行うことは許されないため、本当は授業として行うことに何の問題もない、むしろ価値あるものが、夏休みなどの長期休業中に補修の形で行われ、ますます学校を窮屈で身動きの取れない場所にしている。なぜそれらが授業の枠内で許可されないかというと、それによって教員が仕事を減らすことになるからである。実質を考えるなら、それは問題とする必要のないことだ。だから、私は(2)で、授業の確保を「管理のための管理だ」としたのである。

 成績の悪い子というのは、学ぶことが苦手なのではなく、「文字」で学ぶことが苦手である。文字というのは非常に不思議なもので、おそらくは人間にとって後発的な文化であるが故に、ある種の高校生には非常に苦手で乗り越えられない壁になるようなのだ。ところが、学校はあくまでも文字文化を前提にした場所である。水産高校を始めとする実業高校のように実習が重要な要素となっている学校でも、やはりそれがメインにはなりにくく、リスクを出来るだけ小さくしたい(過度の安全志向)という最近の風潮もあって、文字文化は大きなウェイトを占めている。成績の良くない生徒の集まる学校で授業を多くすることは、生徒を強制的にドロップアウトさせようとしているようなものだ。

 そういうことになるなら、そもそも、彼らは高校になど進学しない方がいいに違いない。しかし、100%に近い中学生が高校に進学するようになってしまうと、実質はどうでもよくて、とにかく高校に進むことが必要となる。高校に進むことに価値があるのではなく、高校に進まないことに不利益が発生するようになってしまう。中学生は全て、暗黙の強制によって、高校に進学することを余儀なくされてしまっている。これは、本人のみならず、社会全体にとって不幸なことであろう。

 私は以前から、社会を複線化することの必要性を訴えている(例えば、2012年11月13日記事参照)。少なくとも、義務教育終了後は、高校に進学するかどうかも含めて実質的にニュートラルに考え、選択することが許され、高校に進まなかった人でも、それぞれの仕事において立派であれば、進学した人に劣らない評価が得られ、尊重されるようになるべきだということだ。もしも、このような複線的社会が実現したら、高校には授業に耐えられる人しか進まなくなるわけだから、35をひとつの目安とする授業中心の学校を作ることが可能になる。これが最終的に行き着くべき場所だ。もっとも、昨日から今日にかけて確認したとおり、そういうレベルの生徒は、逆に授業時数をあまり増やさず、自学に期待した方が伸びるとも考えられる。適正な授業時数がどれくらいかというのは、結局なんとも定め難いのである。

 以上、自分自身が何を考えているのかを確認する目的もあって、「授業時数の確保」という問題について、とりとめもなく書き連ねてきた。結局よく分からないというのが、情けない結論なのであるが、あまり杓子定規に授業時数の確保にこだわるべきでないということ、学校、特に高校という場所は、そこで学ぶ生徒の質が学校ごとに極端に異なるのだから、それぞれの性質に応じた最善の選択が出来るよう、現場に裁量を与えるべきだということだけは間違いないように思われる。(おわり)