「授業時数の確保」についての若干の考察(3)



 ここで、適正な授業時数とはどれくらいか、ということについて考えてみることにしよう。

 学力を伸ばすのに授業が多い方がいいか、少ない方がいいかは悩ましい。多ければ、教員主導の注入型になりやすく、生徒の自立を妨げかねない。少なければ、教員は、動機付けと学び方を教えるだけとなり、自学自習の姿勢を養うことが出来る。前者は成績の低い子どもに向いており、後者は成績のよい子に向いている。つまり、成績の悪い子ほど授業を多く、良い子ほど少なくした方がよい。

 しかし、現実問題として、成績の悪い子は授業が嫌いで、少なくとも座学であれば、出席することそのものに耐えられない苦痛を感じるものである。もちろん、授業のやり方を工夫すれば、という議論はあるが、成績の悪い子ほど、勉強自体に意欲を持たず、仕方なく教室にいるわけだから、授業のやり方次第で彼らの目が授業(勉強)に向くなどというのは、言うのは簡単、実行すること、ましてそれを継続することは至難と言ってよい。同時に、成績の悪い子ほど、教科学習以外のサポートを必要としている子も多いので、ますます授業以外の時間が必要だということになってしまう。

 そもそも、何をどれくらい教えればよいかということについては、論理的に結論が導けない。加減乗除は出来るべきだという小学校レベルのことについては、どうしても教えなければならないこと、学ばなければならないことというのが存在するだろうが、高校レベルであれば(残念ながら、高校生が小学生よりマシという保証もないけど・・・)、確保できる時間がどれくらいだから、どの程度のことを教えよう、と考えるしかない。

 このように考えてくると、適正な授業時数がどれくらいかということには答えがない。どうやら、授業時数をどの程度確保すべきかという問題は、学校という場をどのような場所として位置づけるか、すなわち、授業以外のどこまでを学校の役割と認めるかにかかっている。

 私は、今の学校が、教科指導をはるかに超えてその役割を肥大させていることに批判的である。生徒の生活を丸抱えにすることは、家庭や地域社会の役割を相対的に低下させ、学校だけがますます子供の健全な成長に総合的な責任を負っていくという図式を生む。子育ての第一責任は家庭(両親)が負うべきであり、子供は、輪切りされた学校だけではなく、いろいろな所で、いろいろな人と関わり合いながら成長すべきなのである。学校が生活指導や進路指導に手を伸ばすことで、逆に、学校にその責任が発生してしまう。諸外国のように、学校は授業を中心として、教科の勉強を学ぶ場だと位置づけてしまえば、やがては誰もがそんなものだと認め、それ以上のものを学校に期待しなくなるに違いない。

 だから、学校はいろいろな仕事をそぎ落とし、授業をその中心とした35週が確保できる学校になった方が健全だと思っている。もしも本気で、「授業が大事」と言うのであれば、35が確保できるくらい本気で、教員の仕事内容を精選すべきなのである。それは、昨日確認したとおり、授業以外は何もない、という学校の姿だ。

 しかし、学校が何もかもを丸抱えにするという体質、それを期待するという世の中の体質は、一朝一夕にできあがったものではなく、いわば「日本文化」とも言うべき様相を帯びている。しかも、それは、世の中全体が「個」の責任を曖昧にし、「公」の役割と責任を急激に拡大させているという文脈の中での現象である。つまり、世の中全体が逆の方向に進んでいるのである。これを崩すことが果たして可能かどうか?純粋過激な民主主義者を自認する私にして、それを実現するためには職場の議論では無理で、上意下達で強引に行うしかないと思っている。

 だから、「上意」がその気になっていない今においては、学校丸抱えという「日本文化」を渋々容認した上で、逆に35はおろか、30にすらこだわるべきではない、と思っているに過ぎない。私が(1)で書いたような校長に対する「お願い」をしたのは、むしろ文科省なり県なりが、授業以外の様々なイベントは、本来、学校の役割ではないから、どんどんそぎ落とすように、と言ってもくれるのを期待している面がなきにしもあらずだ。(続く)