不足しているのは「学力」ではなく「向学心」だ・・・「平均」が分からない大学生


 土曜日の新聞に、日本数学会が実施した「大学生数学基本調査」の結果に関する記事が載っていた。大学生の24%が、小学6年生で習う「平均」の考え方が理解できていないなど、学力不足が深刻だという。

 何を今更という感じがする。大学生の(数)学力が問題となり、『分数ができない大学生』などという本が出たのは、既に13年も前の話で、その本はおととし「新版」が出ている。この間、高校にいても生徒の学力は下がる一方で、決して上がっている実感など無いのだから、今更、「平均」概念が理解できていない大学生が4分の1を占めるからといって、大げさに騒ぐのは少し不思議な感じがする。もちろん、だから現状でいいというわけでもない。

 日本数学会理事長によれば、原因として考えられるのは「ゆとり教育」と「大学の推薦入試」だそうである。この分析は浅すぎて、迷惑だ。

 「ゆとり教育」が槍玉にあがって、教育現場の人間なら大抵はうんざりすることであろう。なぜなら、今の学校生活にゆとりがあるとは到底思えないのに、更に成果主義に基づく管理統制と、授業時数確保の大号令が強まることが容易に予想できるからである。

 残念ながら、小中学校がどうかは知らないが、高校について言えば、授業時数が足りないなどということは全くない。悲劇はむしろ、勉強の意欲さえあれば週に1時間の授業でも、否、自学でも身に付く程度のことを、生徒にまったく意欲のない状態で、100時間以上もかけて行い、それでも結果として身に付かず、生徒も教員も眉間にしわを寄せているという現実である。

 大学で学力試験を課さない推薦入試がなぜ増えたかというと、大学自体の増加と少子化によって、大学が高校生に媚びを売るようにして、学生の確保に努めなければならなくなったからである。だから、学力試験を課さない推薦入試はケシカラン、などと言ってもどうしようもない。

 では、大学にまで行って勉強したいとは思っていない、できれば入試も少しでも楽に通過したいと思っている程度の学生が、なぜ学問の府である大学に入ろうとするのだろうか?これには多様な理由があるだろう。生活が豊かになったことによる、子どもを大学にやりたいと思う親の増加、大学さえ出れば、高卒よりは明るい人生が保証されているのではないかという親子共々の誤解、高校卒業後すぐに就職してしんどい思いをするより、とりあえず自由な4年間を確保したいというモラトリアム、それらによって大学進学率がなまじ上昇したことによる、自分も行かないとまずいのではないか、という日本的同調主義の横行、更には、若者を大学に行かせれば、日本人の知的水準も自ずから上がり、高度な社会に対応できるのではないかという世間の側の幻・・・これらの思いに「商売としての大学」が反応して増え続け、巧妙な宣伝活動で生徒の心を刺激し、「デモシカ大学生」は増えた。だいたいのところで、私はそう見ている。正しいかどうかは知らん。

 こうして考えてみると、「ゆとり教育」と「大学の推薦入試」には、ある共通点がある。それは、現象を見ただけでは解決への道は見えてこない、掘り下げて、若者の「学ぶ意欲」はどこでどうすれば育つのか、と考えなければならないということである。

 人間は「意欲」によって支えられていれば、短い時間で驚くほど多くのものを理解し、吸収する。一方、「意欲」の欠如によって生じた不足を、現象として見て、対症療法を施そうとすれば、食べる気のない人間の口をこじ開けて食料を押し込むのと同様、生徒はますますうんざりしてやる気をなくし、そういう生徒ばかりを相手にさせられる教員も疲弊し、労多くして実り少ない悪のスパイラルが延々と続くことになる。

 深刻なのは学力不足ではなく、向学心不足である。数学力が不足しているという現象を考えるのではなく、20歳くらいまでの間に、なぜ「平均」の概念さえ身に付けることさえできないほど勉強に「意欲」を持てなかったのか、という根っこの部分を考えるべきである。そして、勉強に「意欲」を持てなかった人間が、大学進学を考えなくても済むような、柔軟で複線的な社会を作るべきなのである。おそらく、その鍵は学校教育としては小学校にあるのだろうが、日本人の国民性の問題も大きく関わっていて、根が深い。