35人学級の見直し論について



 数日前、財務省が、現在行われている小学校1年生の35人学級を元の40人学級に戻すよう、文部科学省に求めているというニュースが流れた。2011年に、民主党政権の方針で導入されたものの、いじめや不登校の改善に何ら効果が見えないこと、40人学級に戻せば、教員数を全国で約4000人減らし、86億円の支出削減が可能だというのがその根拠らしい。

 これについては、文科省自体が難色を示しているらしいし、批判の意見もインターネット上を始めとして、多数飛び交っているらしい。もちろん私も否定派だ。何かにつけて諸外国と比較し、国際標準を言う人たちが、こと教育に関しては、1学級当たりの生徒数といい、教員の労働時間といい、進路指導や部活動の位置付けといい、国際的に「異常な」状態を放置しようというのがまずは理解できない。だが、日頃から物事を相対的に考えることを批判する立場とすれば、やはり、1学級当たりの生徒数は本来どうあるべきなのか、教育投資はどのように行われるべきなのか、という「本来論」で考えてみないわけにはいかない。

 そもそも、今回問題になっているのが、「いじめ」「不登校」「暴力行為」だというのも解せない。私が見た限りでは、「学力(学習指導)」に対する言及は見つからなかった。学校とはいったい何をするための場所なのか?国家レベルで、積極的に、何もかも学校が丸抱えにすることを認め、むしろそうすべきだと言っているように見える。仕方がない面もあるが、本当に「仕方がない」ことだろうか?

 日頃、「高等学校」という場所で働く者として嘆かわしく思うのは、「高等学校」という看板が形骸化し、およそ「高等」とは思えない、小学校低学年程度の学力さえ身に付いていない生徒の多さである。このことは、「大学」でも同じことで、学問の府であるはずの「大学」で、小学校レベルの算数ができない学生が多いために、補習を行っているなどということが話題になったりする(参考→こちら)。つまり、おそらく、小学校卒業の時点で、その学習内容を半分も身に付けていない生徒が中学校に進み、中学校の学習内容がほとんど身に付かないまま、なぜか彼らのほとんど全てが「高等学校」に進み、更にはその半分以上が「大学」に進むという極めて不自然な状況があるわけだ。

 小学校レベルのことができない生徒が、勉強を好きなわけがなく、勉強が嫌いな生徒が、意欲的に勉強するわけはない。彼らが「高等学校」に入るのは、「みんなと一緒が大切だ」という日本的価値観や、とにかく上級学校に進めばレベルが上がったような自己満足に浸れるという心性や、「高等学校」や「大学」の経営上の問題によっているだろう。勉強する気も実力もない膨大な数の「高校生」「大学生」が、無為に日々を過ごすことの社会的マイナスは絶大である。

 今年6月25日にOECDが公表した「国際教員指導環境調査(TALIS)」(→その時の私見)には、ある衝撃的なデータが含まれていた。それは、「勉強にあまり関心を示さない生徒に動機付けをするか」という設問において、「する」を選んだ教員が、日本では21.9%に過ぎず、参加国平均の70.0%の3分の1未満だった、というデータである。調査の対象は中学校教員であるが、これは、日本の中学校では落ちこぼれた生徒をほとんどそのまま放置していることを意味する。中学校教員を責めてはいけない。私から見ても、中学校は小学校・高校と比べてはるかに忙しく、落ちこぼれた生徒に手を差し伸べるという時間と忍耐の必要な作業が容易にできない状況であることは、とてもよく分かるからである。小学校はそれに比べるとまだマシだとは思うが、大同小異の範囲だろう。

 何事でもそうだが、一度つき始めた「差」は、ひたすら拡大していく。人間が元々あらゆる意味で不公平にできているので、「差」が付くことは仕方がないとしても、「自由」と「平等」という民主主義の基礎を大切にしようと思えば、その「差」をできるだけ小さなものにする努力は必要だ。だとすれば、「差」ができるだけ小さいうちに、落ちこぼれようとする生徒に対して手を差し伸べられるようにしなければならない。

 本当の意味での「高等教育」など、全員に施す必要はない。中学校レベルの勉強でも、それが本当にきちんと身に付いていれば、相当な力になるはずだし、それができた者だけが、「高等学校」に進むべきだ。「高等学校」は、それに見合った数を整備すればよい。だから、これは私の直感でしかないのだが、「高等学校」の定員を今の3分の1か4分の1(或いはそれ以下?)にして、それによって生ずる教員の余剰の多くを小学校に、一部を中学校に振り向け、できるだけ基礎的教養のレベルで差が付かないようなシステムを作るべきなのだ。

 もちろん、学力についても、それが身に付かないといった場合、原因はたくさんあって、1学級当たりの生徒数を少なくすることや、教員の多忙を解消するだけ(←ここに「だけ」を入れるのが乱暴なのは承知しているが、問題の全貌に比べれば、やはり「だけ」なのだ)で解決するとも思えない。だが、それが非常に重要な条件であることも間違いがない。

 財務省にも文科省にも、単純な収支決算のレベルではなく、もっともっと哲学的なレベルで教員配置を考えてもらわなければ困る。お金は使う時には使う。使うべき所には使う。中途半端な投資は、事態を何も改善させない。今の学校が問題だとすれば、国家中枢におけるそんな貧しい議論の結果でもあるに違いない。