「真由子」、または、部活動の顧問自家用車引率その他



 昨日の『毎日新聞』「社説」のすぐ下、「視点」というコーナーに、論説委員落合博氏による「部活動の顧問 「真由子」はわがままか」という記事が出た。

 公立中学校の女性教員が、「真由子」という偽名で、全ての教員が部活動顧問を務めなければならないことに不条理を感じて悩むことをつづっているブログを紹介し、部活動に関する諸問題に少しずつ触れ、「教員なら部活の顧問はやって当たり前で引き受けないのはわがままなのか。「熱血先生」の陰には多くの真由子さんがいることを知った上で部活のあり方について考えたい」と結ぶ。

 私も「真由子」は知っている。かつてこのブログにもコメントをもらったことがある(→こちら)。「真由子」のブログも見たことがある。私も問題意識は基本的に同じだ。「真由子」コメントのある記事でほとんど尽きていて、繰り返しになるので、もう基本的には書かない。「視点」に書かれた「熱血先生」に対しても、部活動が教員にとっての義務である限りは、美談であるよりも迷惑である。「熱血先生」が何かをすれば、他の先生は、「あの先生はしてくれるのに、どうしてうちの顧問はしてくれないのだろう?」という批判の対象となるからである。しかも、そういう人たちが、生徒や教育のために「熱血」であり、献身的であるという保証はない。自分が高校生として果たすことの出来なかった甲子園出場を、顧問として果たしたい、といった自分のための動機である場合も少なくないように見えるからである。(なお、「視点」でも触れられていた日本の教員の勤務実態に関する私のコメントはこちらを参照されたし。)「真由子」がわがままのわけがない。部活動という無限の収奪労働を公然と実質義務化している文科省、県教委のブラック企業化こそが問題なのだ。

 ひとつ補足みたいなことをしておこう。「視点」に出てくる「熱血先生」の例として、「自ら車を運転して遠征に出かけたり」ということが書かれている。自家用車による生徒引率の問題というのは、事故が起きるたびに話題にはなるのだが、すぐにほとぼりは冷め、相も変わらず顧問の自家用車による引率は当たり前のこととして行われている。「熱血先生」の話ではない。少なくとも宮城県の場合、それがほとんど標準だ。生徒を引率するためだけの目的でワゴン車を買ったとか、学校のバスで生徒を引率するために大型免許を取った、というレベルでも、ありふれすぎていて「熱血先生」にはノミネートされないような気がする。それこそ、事故を起こすと困るから私は生徒を乗せない、などと言えば、そのこと自体も批判されるだろうし、今までどおりの遠征計画が組めないと、仕事の停滞として批判もされるだろう。私もかつてはそういう生活をしていた。自分の車で生徒を山に連れて行き、悪天候のテント泊で眠れない夜を過ごした時など、とても辛い思いをしながら車を運転して帰って来たものである。

 私の前任校、仙台一高はこの点、おそらく宮城県内で唯一の優良校であった。校長が、顧問の自家用車による生徒引率を認めないと、おふれを出していたからである。私が勤務していた時の校長、という問題ではなく、代々にわたってのようである。これほど明確に、生徒にも保護者にもそのような方針が周知されていると、顧問が車を出さないからと言って、誰も文句は言わない。何事でもそうだが、「ない」とか「ダメ」とかはっきりさせて徹底すると、いつの間にか「そんなものだ」となってしまう。携帯電話やテレビのような文明の利器と同じである。あれば便利で手放せないが、なくなれば諦めが付いて、欲望も疼かないのである。

 もっとも、仙台一高は仙台市のど真ん中という、地の利に恵まれたところにあるからそんなことができるのだ、という巷(主に他校の教員)のコメントもよく耳に入った。だが、生徒を学校に送り迎えする親も少なくない今日、必要があれば、遠征先まで保護者に送ってもらえばいいだけの話である。また、過疎化とモータリゼーションによって郡部の交通機関が軒並み廃止されたという事情から、顧問の自家用車引率禁止という制約で最もダメージを受けるはずの山岳部でも、車では行けないという前提に立って情報を集め、知恵を絞ると、公共交通機関で思いの外いろいろな場所に行くことが出来ることに気付く。車で行けば、入山地点に必ず下山しなければならないが、車を使わなければ通り抜けのコースを組むことができるというメリットもある。同じ道のピストンにならないので、こちらの方が俄然面白い。

 部活動の話だったはずなのに、いつの間にか、便利なものに頼ると人間ダメになる、無ければ無いでどうにでもなる、といういつものような話になってしまった。お粗末。