「先生」というあだ名



 明日から昔で言う三学期。今は二期制になってしまったので、後期の冬休み後授業ということになり、一言でうまく言い表せないのが本当に不便である。よって、名称上「始業式」というものもなく、全校集会は「開講式」だ。

 仕事には6日から出たが、平々凡々な正月休みだった。最近お決まりのパターンで、2日の夜は前の前の勤務校である石巻高校ワンダーフォーゲル部(実質的には山岳部)OB会(鰐陵山岳会)による新年会、3日の夜は前の勤務校である仙台一高山岳部のOB会(仙台一高山の会)による新年会。二晩続けて飲み歩いた。

 もともと山が好きだったとは言え、顧問として生徒を連れて山に行くのは必ずしも楽しくない。趣味と仕事が一致する、もしくは趣味に仕事を利用するという境地に達することが出来ればよいのだが、少なくとも私の場合、そんな気分にはまずなれない。生徒を連れている限り、仕事だという意識、責任を負っているという意識は片時も頭から離れない。山にいて気持ちがいいとか、楽しいとか、美しいとか思う瞬間はもちろんあるが、それはごく一部分でしかない。

 かつて、K先生と生徒を引率して夏山合宿で朝日連峰に行った。山を歩き始めて間もなく、K先生が「平居先生、いよいよ今日から夏休みですね」と言った。私は正に仰天した。私は、この合宿が無事終わればようやく夏休みだ、今日から4日間が正念場だ、と思って山に入ったのである。これは、K先生が教員としての使命感に欠けるというのではなく、正顧問と副顧問の立場の違い、人間としての容量の大きさの違いであろう。ともかく、私にとって、生徒を連れている限り、山に行くのは立派な「仕事」である。

 OB会との関わりも、自分が顧問である時期には、義務の場合がある。しかし、その立場を離れると、いかなる義務も存在しない。面白ければ行けばいいし、面白くなければ行かなければいい。気楽なものである。こうなると会はがぜん楽しい。私が2校の新年会に行くのには、そこに集まる魅力的で、年齢も職業も違う人たちと酒を飲むのが楽しいから、という理由しかない。

 しかし、いくら顧問を離れても、立場は「元顧問」「特別会員」である。新年会費は払うが、年会費は払っていない。かつては上座らしき場所に座らせられたり、乾杯の音頭だのスピーチだのを特に求められることもあった(近年ないね)。そして、呼ばれる時はいまだに「先生」だ。場にはたいてい有名企業の社長や大学教授もいる。それでも、彼らは「〜さん」で、私は「平居先生」だ。それは考え方によってはいいことでもあるのだが、私には少々煩わしい。自分が直接受け持った生徒以外、特に年配の方々から「先生」と呼ばれるのは居心地が悪い。

 とは言え、石高と一高で多少の違いはあるものの、呑みながら話していると、基本的に彼らは私を「先生」と呼ぶほどには特別視していない、ということが感じられてくる。確かに、私が逆の立場だったとして、日頃からよほど親しく付き合っていなければ、自分より若くても元顧問を呼び捨てには出来ない。「先生」は実に無難だ。そこで、多少の居心地悪さを感じつつ、最近は、「先生」は単なる呼称、いわばあだ名なのだ、と割り切ることにしている。私は「先生」というあだ名の「平居」なのである。

 今年、一高の新年会には私を含めて2名の元顧問(特別会員)が参加していたが、そのような立場に関係なく、完全に年齢順でスピーチが行われたので、この機にと思い、年会費を払うから、普通の会員にして欲しいというお願いをした。大きな拍手があったので、おそらくそれは認められたのだろう。石巻高校は、再び異動して顧問になる可能性がゼロとは言えないので、今のところそんなことは考えていない。ゼロになってから考えよう。

 とかく立場というのは難しい。