「十字架につけよ!」



 既に何度か書いたことだが(→例えば)、私は『聖書』、中でも福音書が大好きだ。最初にそのことに触れた時、私は次のように書いた。「大学時代に改めて『聖書』に向かい、イエスの視線が、実は神よりも人間に、死後の世界よりも現世に向けられていることに気付いてから、私は宗教を意識することなく、従ってクリスチャンになることもなく、そこに描かれたリアルな人間の姿に大いに魅力を感じるようになった。その後、『新約聖書』は、私が最も繰り返し読んだ本の一つとなっていくが、いつもその時の人生経験と時代状況に応じて、新しい発見と意味の変幻があって飽きることがない。」15年以上も前の文章ではあるが、今でも確かにそう思う。

 さて、1月5日に、私は正月を過ごした実家から石巻に車で戻ってきた。久しぶりで、矢本から航空自衛隊松島基地の脇を通り、津波で全滅した大曲浜の横を抜けた。広い田んぼがつぶされ、その真ん中に高盛り道路が建設されつつあった。あまりにも無残な風景だった。怒りや情けなさや悲しさや侮蔑感のようなものが、ごちゃ混ぜに湧き起こってきた。今更ながらにショックを受けながら自宅に帰り着くと、巨大防潮堤の建設や門脇町のかさ上げといった巨大土木工事の様子が嫌でも目に入る。これらのために、どれほど多くの田畑がつぶされ、山が切り崩され、生き物が犠牲となり、石油を始めとする資源が消費され、二酸化炭素が放出されたことか・・・。これが本当に人々の望む「復興」なのだろうか?これが「復興」だと言うのなら、「復興」なんて必要はない、と私は心の底から思う。

 1月6日の毎日新聞に、気仙沼市唐桑町の高さ11m超の防潮堤に関する写真付きの記事が出た。無残であり醜悪でありおぞましい。記事は両論併記ながら、明らかに否定的、少なくとも懐疑的なトーンで書かれている。記者は「津波で町が壊され、今度は自然が壊された」「立派にしてもらったという気持ちもあるが、ここまで作る必要があるのか」「後世にツケを残し、復興の名目で無駄遣いをしていないか。」といった住民の声を拾う。胸を痛めながらそんな記事を読んでいた時だ、またしても、私の脳裏に聖書の一節が浮かんでくるのは・・・。(マタイ伝第27章)


 イエスは神の子を自称したため、神を汚した罪でユダヤ人偽善者達に訴えられ、捕らえられた。そのイエスを裁くのはローマ人総督ピラトである。ピラトは人々がイエス捕らえたのはねたみのためであって、実際には無罪だと思っていたが、何を聞いてもイエスは答えない。そこで、祭りのたびごとに群衆が願い出る囚人をひとり許してやるという慣例を用いて、イエスを許そうと考えた。イエスと天秤に掛けられたのはバラバである。以下、引用する(日本聖書協会訳を利用し、一部表現・表記改)。

総督は彼らに向かって言った、「二人のうち、どちらを許して欲しいのか?」

彼らは「バラバの方を」と言った。

ピラトは言った、「それではキリストと言われるイエスは、どうしたらよいか?」

彼らはいっせいに「十字架につけよ!」と言った。

しかし、ピラトは言った、「あの人は、いったい、どんな悪事をしたのか?」

すると彼らはいっそう激しく叫んで、「十字架につけよ!!」と言った。

ピラトは手のつけようがなく、かえって暴動になりそうなのを見て、水を取り、群衆の前で手を洗って言った、「この人の血について、わたしには責任がない。お前たちが自分で始末をするがよい。」

すると、民衆全体が答えて言った、「その血の責任は、我々と我々の子孫の上にかかってもよい。」

そこで、ピラトはバラバを許してやり、イエスをむち打った後、十字架につけるために引き渡した。


 ここで民衆が「その血の責任は、我々と我々の子孫の上にかかってもよい」と答えた時、本気でそんなことを考えていた人はいないだろう。売り言葉に買い言葉。ピラトが「この人の血について、わたしには責任がない」と言ったから、そう返したに過ぎない。しかも、答えた民衆の中の多くは、誰かが言っていたことに付和雷同しただけ。「血の責任」がいかなることであるかも考えていなかっただろうし、そもそもそんなものが、実際に自分や子孫に降りかかってくるなどという事態が起こることは、あり得ないこととして答えていたに違いない。つまりは、深い思慮も将来への展望もなく、今現在の衝動に従っていただけなのである。人間は、目の前のことだけを考えて衝動的に動く。なんと深刻な人間観であり、簡潔にして十分な描写だろう。そして、震災後の「復旧復興」の大合唱、それを後押しするかのようなマスコミの報道が、何ら後先を考えることのない、極めて感覚的・衝動的・打算的な施策を生み出していることを思う時、どうしても、私にはそれらが、「十字架につけよ!!」「その血の責任は、我々と我々の子孫の上にかかってもよい」という聖書の中の見境のない人々の声と、重なって聞こえてくるのである。

 イエスを十字架に付けるよう求めた人々(ユダヤ人)は、その後どうなったか?パレスチナから追放されて世界に離散した。それ自体は、イエス磔刑とは無関係だろう。だが、移住した先で彼らの子孫は、長く迫害に苦しむことになる。そちらはイエスと無関係とは言えない。迫害された理由はたくさんあるようだ。だが、キリスト教文化圏において、迫害の重要な根拠の一つが、「ユダヤ人はイエスを殺した」ことだというのは確かだろう。「その血の責任は、我々と我々の子孫の上にかかってもよい」と叫んだ人々の子孫は、確かに降りかかってきた「血の責任」に長く苦しむことになったのである。もちろん、叫んだ当人達はそんなことを知らない。

 いずれ、どのような形かは知らないが(多分、温暖化による環境・エネルギー・食糧問題、もしくはそれに起因する戦争だろう)、人間は自然によって東日本大震災を上回る手痛い反撃を受ける。必ず受ける。それと「復興」は無関係ではない。

 私もピラトと同様、手を洗いながら、「この人の血について、わたしには責任がない。お前たちが自分で始末をするがよい」と言って社会との関係を絶ちたい。だが、たとえ「復興」に全否定でも、文明の恩恵は享受しているわけだから、完全に自分を免罪して高みの見物というわけにもいかないし、なんとか子孫が「血の責任」を取らなくて済むようにしてやりたいという思いから離れることも出来ない。聖書を手に、眼下の工事を見つめる。苦しい。