中国革命への誘い(1)



 革命聖地・延安は、今年5月から10月まで、「第首届紅色文化旅游季(第1回紅色文化旅行期)」というキャンペーンが行われていることもあってか、多くの中国人旅行客で賑わっていた。しかし、先日書いたとおり、日本人や西洋人旅行者の姿は見られなかった。

 現在の中国を見ながら、共産党政権の是非を論じるならば、急激な経済発展を実現させた以外には「非」の部分ばかりが目に付く。いや、そもそも今の中国共産党が、名前に「共産」を含み、共産主義政党を名乗ることに、大抵の人はいかがわしさを感じるに違いない。

 しかし、建国までの中国共産党は、間違いなく組織として理想的に健全・機能的であった。その結果、乾燥した黄土高原で経済封鎖を受けながら、独自のゲリラ戦で日本を破り、ごく一部の裕福な人の権利だけを擁護しようとする物量豊かな国民党を退けて実現した中国革命は、史上最大のロマンである。「組織として」と言えば、いかにもシステムとしての形式性を感じさせるが、そこに集まった人物達の際だった個性と能力は、正に多士済々。それこそが、当時の共産党の実力であり魅力である。

 毛沢東の、状況を分析し、正しい方向性を見いだす嗅覚の鋭さは比類がない(その毛が、建国が実現すると突然、現実にも将来にも盲目となるから人間は不思議である)。紅軍(→八路軍人民解放軍)の総帥として長く敵に恐れられ続けた朱徳は、素朴、善良で穏やかな農夫のような、なんとも魅力的な表情を常にたたえている。とても勇敢で気骨ある優秀な将軍には見えない実力者という点では、聶栄臻も双璧だ。彭徳懐ブルドッグのような顔を見ていると、私にも闘志というものが少しはわき起こってくるような気がする。周恩来(+トウ穎超夫人)という存在は、この世の奇跡である。人類史上、これほど生涯に多くの仕事をこなし、最後まで私欲が無く、外国人も含めて誰からも人柄を愛された人物は多分存在しない。他にも、賀龍、張聞天、李克農、任弼時、博古、徐特立、トウ小平・・・、更に、延安以前に死んでしまった人としては、謝子長、方志敏、劉志丹、瞿秋白・・・。一つの集団に、これほど人材が集中した例は珍しいだろう。『三国志』や『水滸伝』を彷彿とさせるが、現実的な生々しさはこちらが遙かに上である。その割に、日本人が中国革命に目を向けないのは、吉川英治司馬遼太郎のような人が、そのドラマを小説化しなかったから、というだけのように思う。

 上に挙げたような指導者には、富裕層出身の人もいるし、貧農出身の人もいる。貧農出身とは言っても、延安時代に指導者になっていた人はまだ、共産党に身を投じ、その中で教育を受け、鍛えられたという人たちは少ない。貧農がその状況を打開するために、借金を重ね、一家の命運をかけて一番頭の良さそうな息子に投資をし、学校に通わせて資質を磨いたというパターンである。朱徳がその典型例であろう。彼らは親の期待を裏切らず、学校で優秀な成績を収め、出世栄達への道を進み始めることに成功した。

 つまり、貧農出身も含めて、当時の共産党中央指導部のメンバーの多くは、国民党政権下でも支配階級の側に立つことが出来た人たちだった。にも関わらず、真面目に働いている人が食えず、常に餓死の危機にさらされている一方で、ごく一部の人だけが肥え太っているという社会状況に強い疑問を感じ、一族の期待を裏切り、安逸な生活や家族といった全てを捨てて、全く先の見えない共産党に走った。私は、その覚悟に頭が下がる。共産主義革命が実現する可能性など、彼らが共産党に走った時点では、普通に考えればゼロである。私には絶対に真似が出来ない。

 私の愛読書『新約聖書』の福音書に、以下のようなたいへん印象的な場面がある(日本聖書協会訳のマタイ・ルカ伝に基づき抜粋して構成)。


ひとりの青年がイエスの前にひざまずいて尋ねた。

「永遠の生命を得るためには何をしたらよいでしょうか?」

「戒めを守りなさい」

「みな守ってきました。ほかに何が足りないのでしょう?」

「もしあなたが完全になりたいと思うなら、帰ってあなたの持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。」

この言葉を聞いて、青年は悲しみながら立ち去った。たくさんの資産を持っていたからである。それからイエスは弟子たちに言われた。

「富んでいる者が神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通る方がもっとやさしい。」

弟子たちはこれを聞いて非常に驚いて言った。

「では、だれが救われることができるのだろう?」

エスは言われた。

「おおよそ、私や福音のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子、もしくは畑を捨ててきた者は、その幾倍をも受け、また永遠の生命を受け継ぐであろう。」


 永遠の命を得ることを希い、努力を重ねてきた青年は、イエスに永遠の命を得る方法を教えてもらったにも関わらず、それが実行できず、寂しく立ち去る。弟子もイエスの言葉の実現不可能性に驚く。ここに表れた人間観は深刻である。全てを捨てることは、更に大きな価値を手に入れるためにそれが必要だと分かっていても、実行できないものなのだ。人間は、それほどまでに自分が手に入れた物に執着する生き物である。

 中国革命の、特に早い時期の指導者達は、この人間にとって至難の業を実行できた人たちである。加えて、その実行を支えた極度に純粋な理想主義的精神、そしていかなる困難な状況の中でも、必ず革命は実現するのだという信念と楽観性こそが、彼らの比類ない人間的な魅力を作ったのだろう。(続く)