「永遠の命」を得る方法

 私の作文には、たびたび『聖書』が登場する。私はクリスチャンではないが、『聖書』に描かれた人間の姿に強い共感を覚えることが多いからだ。よくこれだけ簡潔な表現で、人間という生き物の本質的な姿を描けるものだと感嘆する。
 今までにも取り上げた福音書に描かれた一場面に、次のようなものがある。

「ある青年がイエスに『永遠の命』を得る方法を尋ねた。イエスが『持ち物を売り払い、貧しい人に施せ』と答えたところ、青年は悲しみながら立ち去った。」

 せっかく「永遠の命」を得る方法をイエスから教えてもらったにもかかわらず、その教えを実行できなかった青年の姿に、私は極めて深刻な人間観を見る。そしてその時、私の脳裏に浮かぶのは、私利私欲を持たず、人々の救済のために奔走した歴史上の偉人たちの姿なのだが、自分の専門の都合で、その多くは、中国共産党の草創期に、国民党に身を置けばいい暮らしができたはずの優れた能力を持ちながら、みんなが食える社会の実現を目指して極端にリスクの大きな共産党に入り、革命を推し進めた人たちである(→参考記事)。最近なら、中村哲氏あたりもそんな人物に見える。
 ところが、最近、また別の文脈でこの話が気になりだした。それは、地球温暖化の問題である。
 温暖化が人間の経済活動によって起こっていることは、既に疑う余地がない。政治家などは、温暖化対策と経済は矛盾しないと言うけれども、私が見るに、それらは絶対に矛盾している。本当にそれらが矛盾しないなら、もっともっと対策は進んでいるはずである。
 最近の私には、どうしても「永遠の命」=「人類(生物?)の存続」、「持ち物を売り払う」=「豊かさを手放す」と読めてしまうのだ。「本当に温暖化を解決させ、人類の存続を望むのなら、今の安穏とした生活を一切捨てて、文明以前の生活に戻すしかないですね」と言った時、人は「悲しみながら立ち去る」のである。
 立ち去って行くところがあればいい。しかし、温暖化から逃れられる場所はない。立ち去れば、それは生存を諦めることを意味する。そして人間は、生存の望みが絶たれてから、ペテロがイエスを3度否認した後で、激しく後悔したように、自分たちの貪欲を悔いるのではないか?
 私には、『聖書』がそんな予言をしているように思えてならない。