何に「不安や恐怖」を感じるか?・・・北アルプス番外編

 一昨日、双六小屋の賑わいについて書いた。多くの人が食事をし、ビールを飲んでいた。CSで、私より少し遅れてきて、私の隣にテントを張った2人組は、テントを張り終えると「さ、飯食いに行くか・・・」と言って、小屋の方に行ってしまった。まるで、下界でどこかの食堂に入るような雰囲気だった。
 下界では、最近物価の上昇が云々、という話になるが、山で見ている限り、日本人の購買能力は非常に高い。1000円の生ビール、600円の缶ビールが飛ぶように売れている。「高いから止めておこうよ」という気配など微塵も見えない。鏡平の小屋など、玄関先に「氷」ののぼりが立っている。かき氷だ。600円也。
 私は、山中、山小屋でビールを飲んだり食事をしたりはしていない。高天原山荘でも自炊だったということも、既に3日前に書いた。双六小屋で生ビールを飲めば、ジョッキ1杯1000円、高天原山荘で2食付けると、食事代だけで5000円。しかも、食事はささやかな定食である。
 しかし、である。私が高天原で自炊をし、どこの小屋、CSでもビールやコーラを買わないのは、断じて値段の問題ではない。それらがヘリコプターで運ばれているからである。ボッカ(山の荷運び人夫)さんが登山口から食材を運んでいるなら、それを買うことに何の抵抗もない。
 ヘリコプターが飛ぶためには、多くの石油が必要だ。それを燃やすことによって、山小屋での食事もビールも可能になっている。私は、とにかく温暖化というものを、戦争とすら比較にならないほどの人類にとっての脅威と考えていて、その影響がこれほど目に見える形で現れ,社会として実効ある「対策」がほとんど全く取られていない以上、まずは個人が徹底的に石油を使わない生活を実践するしかない、と考えている。しかも、現在の生活水準をいささかたりとも下げることなく対策を取るのではなく、「耐え忍ぶ」という言葉がふさわしいほどに豊かさを犠牲にするしかない。今は既にそんな時期だ。
 そんな私にとって、許されるのはせいぜい山小屋建設までであって、食事もぜいたく。ビールやジュースなどまったく論外なのである。食料を自分で持って行けない人は、登山をする資格がないと考えてよい。
 1000円を持っていて、標高2500m地点での生ビールに1000円の価値ありと思った場合、普通の人は生ビールを買ってよい、と判断する。法的に禁止されていない以上、単純に需給関係のバランス(=値段)の中で、「買う」「買わない」は決まっていくようだ。これは、商売をする側からしても同様である。売れる以上は、売れるだけのものを仕入れようとする。天候の許す限り、ビールを積んで何往復でもしてもらえばいい。ヘリコプターに何十万円払おうが、お客さんが出してくれるのだからいいではないか、ということだ。経済以外の価値観は存在しない。一方私は、値段の問題ではなく、環境モラルに反する問題として、「買ってはならない」と判断する。
(環境モラルなどという七面倒くさいものを持ち出すまでもなく、山の上でよく冷えたビールなんか飲んでいると、「下山した時に飲むビール」の快感を味わえず、少し気の毒な気もするのだけど・・・。)
 帰宅後の石巻は異常に暑い。日頃から私が、「全国で一番気候がいい町だ」と言っているにもかかわらず、連日、最高は32~3℃、最低は25~6℃である。国内で、35℃を超えているところはザラなのだから、それでも十分いいではないか、などと言ってはならない。今までの石巻ではあり得なかった気温である。しかも、週間予報を見ていても、それがずっと続くことになっていて、終わりが見えない。今年も九州北部と秋田で、記録的な豪雨による被害が出た。台風6号の異常な進路も、発達した太平洋高気圧の影響らしい。
 私の評価する映画監督の森達也氏が、以前から「日本人は不安と恐怖に弱く、集団化を起こしやすい」ということをよく言う。だが、これだけあからさまな温暖化の脅威に対して、日本人が「不安」や「恐怖」を感じている風はない。
 温暖化に対して真面目に対処しようと考えれば、今の生活を手放さなければならなくなる。そのことに対して「不安」や「恐怖」を感じるから、あえて温暖化の現実を直視しないと見える。つまり、「不安と恐怖に弱い」ということが問題なのではなく、どのようなことに対して「不安や恐怖」を感じるかこそが問題なのだ。
 どうもその点において、人々の感覚はずれているのではないか?(人はお前がずれていると言うだろう)。授業で生徒と教科書を読んでいて発問すると、生徒はなぜか本当に重要なところを飛ばして、どうでもいいような所を答えることが多い。なぜそこまで分かっていながら、そのすぐ隣の行に書いてある決定的に重要な場所が目に入らないのか?・・・温暖化問題に表れた人間の性質と重なり合う。自然の定めなのかも知れない。