鷲羽岳を経て、俗界に戻る

7月29日(土)

高天原山荘4:05・・・水晶池・・・7:05岩苔(いわこけ)乗越7:15・・・8:20鷲羽岳(わしば-、2924m)8:35・・・9:30三俣山荘(みつまた-、2536m)9:45・・・10:25三俣峠(2750m)10:35・・・(巻き道)・・・11:56双六岳分岐(すごろく-、2660m)・・・12:10双六小屋・CS(2550m)

 連日、午前中が快晴なのはありがたいのだが、暑さにすっかり参ってしまった私は、なんとか涼しいうちに鷲羽岳の頂上に行き着くべく、少しもったいないなぁ、と思いながらも、山荘を4時に出た。ちなみに、山荘でも私は食事を付けてもらわず自炊だったのだが、それは4時に出発するから、というのではない。その辺の事情については、いずれ改めて触れることにする。
 小屋を出たのは私が一番早かった。昨日の雨と夜露とで、登山道沿いの草木はすっかり濡れている。正に「露払い」である私は、全身も荷物もぐしゃぐしゃに濡れた。
 今回の山行で頂上に立った山のうち、いわゆる「日本百名山」は立山薬師岳鷲羽岳の三つである。間近に望んだのは黒部五郎岳水晶岳である。一作家が勝手に選んだ「日本百名山」がどれほどのものか、という思いが私にはあり、今までもそれを意識しながら行く山を決めるなどということはなかったけれども、北アルプスを歩きながら眺めてみると、「日本百名山」に選ばれている山というのはそれなりの大きさと存在感があって、ひと味違うものだな、と思わされた。
 ところが、雲の平から見た時、黒部五郎岳水晶岳雄大なスケールの個性的な山に見えたのに対して、同じ「日本百名山」でありながら、鷲羽岳はペロンとした尾根の突起にしか見えなかった。隣の水晶岳とはまったく格の違う山に見えて、情けないような寂しいような気分になった。
 見え方が変わったのは、岩苔乗越に登り着き、間近に眺めた時からである。そこから見た鷲羽岳は、大きく立派な独立峰である。左の肩の所にゴツゴツとした槍ヶ岳が、右側にはたおやかな三俣蓮華と双六岳黒部五郎岳が見えている。隣の水晶岳がかつて「黒岳」と呼ばれていた通り黒いのに対して、鷲羽岳は白い。コントラストは鮮やかだ。頂上に着くと、すぐ南下に鷲羽池が見えて、その向こうに槍・穂高連峰が見えるのも美しい。これはこれでなかなか魅力的な山だと思った。
 三俣峠で道は二つに分かれる。一つは、三俣蓮華岳(2841m)、双六岳(2860m)の山頂を経由する稜線ルート、もう一つは三俣蓮華岳のカールの下方を通って、双六小屋のすぐ上に抜ける比較的水平に近い巻き道ルートだ。
 私は、とにかく雨が降り始める前に双六池のCSにたどり着きたい一心だった。既に山歩きも山見物も堪能したという思いがあったので、三俣蓮華や双六のピークに対する執着は薄かった。三俣峠に荷物を置いて、三俣蓮華岳を往復し、その後巻き道を通ることも考えた。山岳地図によれば、三俣峠から三俣蓮華の頂上までは登り15分、下り10分である。頂上での休憩を考えても、30分あれば往復できるだろう。しかし、三俣峠から見た三俣蓮華は、15分で行けそうな山には見えなかった。加えて、槍ヶ岳方面から黒い雲が双六小屋に近づきつつあった。土砂降りの雷雨の中を歩くとか、テントを張るとかは本当に願い下げ。それだけは何が何でも回避したい。私は二つのピークをともに諦め、巻き道コースで双六池に向かうことにした。
 着いた双六小屋は、新穂高温泉から数時間で登って来られるとあって、かなり濃厚な下界の雰囲気を漂わせていた。小屋の前のテーブルには多くの登山者がいて、ジョッキでビールを飲んでいた。どこかのフードコートと同様、「カレーライスをご注文で、番号札18番をお持ちのお客様、窓口までお越し下さい」などという声が頻繁にスピーカーから流れてくる。
 小屋の受付で、CS利用の申し込みをする。申込用紙の予約欄で「無」に丸を付けて受付に出すと、あまり愛想のよくないお姉さんからこんなことを言われた。

「予約されていないんですか?今日からはピークシーズンで、テント場も予約がないとご利用いただけません。」

 これはびっくりである。小屋だけではなく、ついにCSも予約制になってしまったらしい。私が今春買った最新のガイドブックにも、そんなことは書かれていない。どうしてもダメだと言われたら、隣のCSまで移動するしかない。最も近いのは三俣山荘のCSであるが、そこも予約制になっているかも知れないし、翌日下山する方向と真逆に向かって引き返すのは不合理だ。下山口方面で次のCSは、4時間先のわさび平である。あまりにも遠い。困ったな、と思いつつ、次のような会話をした。

私「予約制だって知らなかったんですよ。既に今日、高天原から歩いて来ていますし、私はどうすればいいですか?」
受「予約制になってからもう3年になります。」
私「・・・」
受「キャンセルが出たので、受付はしますが、今後は必ず予約してから来て下さいよ。」

 というわけで、テントを張ることは許可された。料金は2000円也。鷲羽岳山頂で会った上品なおばさんが、予約なしで三俣山荘に行ったら、たまたま空きがあって泊めてはもらえたが、割増料金として2000円を取られた、と言っていたので、双六池のCSも本来1000円で、予約しなかったことによる割増(罰金)が1000円付いたのではないか?と思ったが、後から調べてみるとそうではなかった。本来の料金が2000円である。CSまで予約しないとダメとなれば、面倒くさくて北アルプスなんか歩いてられねえな、とは思ったが、どうせ、テント担いで1週間などという山行はもうすることがないだろう。キャンセルが本当にあったのかどうかは知らない。とにかく、愛想がない割に良心的な対応をしてくれた、と感謝することにした。
 怪しげな雲が近くに迫っている割に、天気はその後も持ちこたえた。結局、山中最後の夜、雨は最後まで降らなかった。(続く)