薬師岳の長い長い一日

7月26日(水)

五色ヶ原CS4:10・・・4:25五色ヶ原山荘・・・4:55鳶山(2616m)5:00・・・6:17越中沢岳(2592m)6:30・・・7:53スゴ乗越の頭(2431m)7:58・・・8:30スゴ乗越(2170m)8:43・・・9:30スゴ乗越小屋(2270m)9:40・・・13:08北薬師岳(2900m)・・・14:05薬師岳(2926m)14:20・・・16:15薬師峠CS(2294m)
*「乗越」=「のっこし」、鞍部(峠)のこと。

 今回の山行で、最も長い行動時間が予想された区間である。山岳地図のコースタイムによれば、11時間40分歩くことになる。
 山岳地図のコースタイムとは、「30~50歳の登山者が山小屋利用1泊2日程度の装備を携行して歩く場合を想定した標準的な所要時間。休憩や食事に要する時間は含みません」と書かれている。「山小屋利用」とは、テント、シュラフ(寝袋)、炊事用具を持たないということだ。一方、私はテント泊、1週間分の全食料持参なので、荷物の重さは「1泊2日の山小屋泊」の2倍以上。年齢は60歳。したがって、山岳地図の想定よりはるかにペースが遅くなるのが当然である。しかも、実際に歩く時には必ず「休憩や食事に要する時間」が必要だ。
 私の歩く速さは比較的速いので、通常は、休憩時間込みで山岳地図のコースタイム以内に収まるが、果たしてこの区間はどうなるだろう?山では、昼頃までに宿泊地に着くことが望ましい。仮に朝晴れていたとしても、山は昼頃からガスがかかり、その後雨(往々にして雷雨)になることも多いからだ。天気は歩き終えるまで保つだろうか?体力的には大丈夫だろうか?山中で力尽きるのが困るのはもとより、無理がたたって、帰宅後、体調を崩すことになるのも困る。私は強い不安と迷いとを感じていた。しかし、この区間で、途中泊まれるところはスゴ乗越小屋のCSしかない。そこまでなら、わずかに5時間40分。4時にCSを出れば、10時前には着いてしまう。無理しないことを最優先に考えればそうすべきだが、スゴ乗越のCSは長居して楽しそうな場所ではないし、あまりにも間延びした山行になってしまう。それほど時間に余裕があるわけでもない。
 五色ヶ原にテントを張った中に、私と同様、翌日薬師峠を目指すという人が2人いた。やはり私と同様、どちらも単独行で、1人は私より年上だった。なんとなく心強く感じると同時に、「やっぱり行くしかないな」という気分になった。
 夜中、雨が降り始めた。雷はなく、弱い雨ではあったが、翌日本当に晴れるのだろうか?という不安を感じた。朝起きるとガスがかかっている。天気予報では、天気の崩れる可能性は感じられなかったので、やがて晴れることを信じて出発することにした。ガスが切れて、青空が見え始めたのは、越中沢岳の頂上に着いた頃であった。
 晴れたのはよかったが、その後の日差しと暑さは厳しかった。加えて、荷物の重さがこたえだした。重さ自体というよりも、それを受けている肩に感じる強い痛みを、耐えがたいと感じるようになってきたのである。
 上の行程を見ると、例えば、蔦山からスゴ乗越の頭までは、一見、緩やかな下り坂に見える。しかし、実際には、蔦山、越中沢岳、スゴ乗越の頭が独立したピークである以上、それらの間には必ずアップダウンがある。だいたい250~300mを上り下りするのだ。これがなかなかつらい。
 スゴ乗越小屋から北薬師岳までの間は、あまりにも暑いので、30分に一度は数分間の短い休憩を取って、水をがぶがぶ飲んでいた。幸い、午後から多少のガスはかかってきたものの、雨や雷の不安は全然感じなかった。
 北薬師岳の手前、石の色が赤から白に変わるあたりで雷鳥の親子に遭遇した。特に私のことを警戒する風もない。私からわずか3~4mほどの所で親鳥が、他の鳥もよくするように、羽を膨らませてブルブルと体を震わせた。すると、羽の内側からもうもうと土埃のようなものが出てきた。砂浴び、土浴びをする鳥は珍しくない。仮に雷鳥もまたそういうことをしていたにせよ、それによって羽の内側にそれほど多くの土をため込むなどということがあるのだろうか?私は驚いた。
 薬師岳の東面には氷河の名残、金作谷カール(特別天然記念物)がある。これは本当に教科書通りの見事なカールだ。私が実際に見たことのあるカールの中では、幌尻岳(北海道日高山脈)の七つ沼カール、荒川岳南アルプス)南面のカールとともに、日本3大カールとでも呼びたくなるほどのものである。
 美女平から室堂に向かったバスの車内放送で、薬師岳は「北アルプスで最も美しいと言われる」と紹介されていた。多くの名峰が並ぶ北アルプスで、「最も美しい」などと評することには、それがどの山だったとしても無理がある。しかし、見る方角によって形状と雰囲気が変わるということに関し、薬師岳は面白い山であるとは思った。
 薬師岳から薬師岳山荘へは、「月の沙漠」を想像させるような単調な裸のガレ場が続く。薬師岳山荘から薬師平を過ぎると、道は沢筋に入っていく。12時間近く歩いてきて、この歩きにくい沢筋を下るのはつらかった。とても長く感じた。
 五色ヶ原から12時間5分で、薬師峠のCSに着いた。手元のメモによれば、その間、休憩していた時間の合計は1時間51分に及ぶ。ということは、実際に歩いていた時間は10時間14分に過ぎない。山岳地図のコースタイムより1時間26分も短い時間で歩き通したことになる。これは不可解。暑さと荷物の重さによってバテバテで、亀、いやカタツムリのようなペースでなんとか薬師岳を越えた、というのが実感である。コースタイムの歩行ペースとはいったい何なのだろうか?
 ともかく、まだ実質2日目にして疲れ果てつつも、私は山行の半分以上を終えたような安心感に浸った。それにしても、この日、午後の雨がなかったことは本当に幸いだった。私の天気に関する「読み」の勝利、というよりは、運がよかったと言うべきだろう。
 薬師峠のCSは、正式には「太郎平キャンプ場」と言うらしい。折立という登山口から4時間ほどで来られる。日本百名山の一つ・薬師岳に手軽に登れる場所として人気があるらしく、30あまりのテントが張られていた。数の問題だけではない。五色ヶ原に泊まっていた人々と比べると、明らかに雰囲気が軽く、俗世の雰囲気が濃い。CSの管理棟では、ビールやコーラを売っていた。(続く)