戦争の教訓(戦争は現代の十字架である)

 今までにも何度か書いていることだが、私は何かにつけて『聖書』を手に取る(→参考記事「十字架につけよ」「誓ってはならない」「永遠の命を得るための方法」)。特に福音書に簡潔に描かれた人間の姿は、愚かで哀しくはあるが、あまりにも普遍的な真実(自分自身の姿!)であると思う。今の時代を生きながら、そこに描かれた人間の姿を思い出しては、慄然とすることは少なくない。
 このブログの記事にはないのだが、かつてあるところに「福音書私記抄」という一文を寄せたことがある。そこで私は十字架について次のように書いた。長いが、大切なので引く(『聖書』からの引用は全てマタイ伝による)。

キリスト教の最も重要な教義として、贖罪の思想がある。イエスは、人々の犯した罪を贖うため、十字架につけられたというものである。しかし、前段(=イエスは常に未来へ向けて人々の主体性を問うている)のようにイエスの思想・立場をとらえる者にとって、罪がイエスの死によって「贖われる」という受動態は、甚だ理解しにくいものだ。そもそも信仰は論理によって解されるべきものではないが、他の場面におけるイエスの行動の合理性に比べ、十字架はあまりにも唐突である。
 イエスが自らの運命について具体的に語る最初の場面は、次のようである。「イエスキリストは、自分が必ずエルサレムにいき、長老、祭司長、律法学者達から多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえるべきことを、弟子達に示し始められた。するとぺテロはイエスをわきへ引き寄せていさめ始め、『主よ、とんでもないことです。そんなことはあるはずがございません』と言った。イエスは振り向いてぺテロに言われた。『サタンよ引き下がれ。私の邪魔をするものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている』」。ぺテロが否定したのは、復活についてではなく、イエスが人によって苦しみを受け、殺されることについてである。ぺテロは律法学者達(これは「人間」と言い換えられてよい)が、イエスを死へと追いやるような過ちは犯さないと言っているのである。自分については言うまでもない。人は誰しも過ちを犯す。にもかかわらず、人は自分が間違ったことをすることはないと誓う。このことが、イエスの「あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」という言葉を誘うのである。このような傲慢こそは、「心をいれかえて幼な子のようにならなければ、天国に入ることはできないであろう」と語るイエスにとって、「私の邪魔をするもの」なのである。ぺテロの傲慢を打ち砕くのは、奇しくもぺテロ自身であった。
 ぺテロがイエスを三度否認した。これは、イエスが十字架につけられる途上に起こった出来事の一つに過ぎない。イエスが十字架につけられるためには更に多くの出来事が必要だった。弟子の一人であったユダは、銀貨三十枚と引き換えに、イエスを捕らえる作業に加担した。イエスが捕らえられたとき逃げ去ったのは、ぺテロだけではなかった。自分たちの地位や立場に激しく執着する律法学者達は、何が真実かを一切考えることをせず、イエスの声望に対する嫉妬から、イエスを陥れるためにあれこれ画策し、ついにイエスを十字架刑に処すべく群衆を煽動した。群衆は注意深い思慮を全く持たなかった。イエスの死は、これらすべての結果である。このことを考えるとき、私達は、ゴルゴダの丘の上に立つ十字架にかけられたものが、イエスというよりむしろ、人々の罪であることに気がつくであろう。十字架は本来、罪を犯した人がかけられるものだが、ここでは、十字架に付けられた人をめぐって犯された罪がかけられているのである。律法学者は、群衆は、ぺテロは、決して特殊な人々ではない。彼らは常に、自己愛によって良心を見失い、事が終わった後で過ちに気付き後悔する、現実の人間のありのままの姿を現している。彼らは私達である。十字架にかけられたイエスを見るとき、私達は、イエスがそうなるために人々によって犯された罪を思い、それと同様のことを、違う状況の下であれ、自分も既に犯してしまった、今犯しつつある、将来犯すであろうことに思い至り、戦慄しなければならない。十字架は鶏の鳴き声に似ている。イエスは、人々がそれを見ることによって、ぺテロが「激しく泣いた」ように激しく悔い、ぺテロがイエスの死後、ローマに殉教するまで福音を述べ伝えることに全力を尽くしたように、改めて福音を実践することを求めている。十字架上のイエスは、人の罪を贖いなどしない。自分を罪から救うのは、あくまでも自分なのである。イエスがしたのはそのための準備なのだ。」

 もう30年以上も前に書いた文章だが、私の考えは何ら変わっていない。そして今、ああ、「戦争」は「十字架」なのだ、と思う。戦争を見つめれば、あらゆる人間の愚かさが見えてくる。決して特定の誰かにだけ責任があったりはしない。(続く)