パリは燃えているか



 かつて、NHKで「映像の世紀」という番組を見た。調べてみると、もはや20年も前のことらしい。映像というものが発明され、一般化されたこの100年あまりの映像を用いて、世界の歴史をたどったという番組である。人間の歴史、或いは人間というものの性質をよく伝えてくれる素晴らしい番組だと思ったが、「感動した」というのはニュアンスが少し違う。人間が、様々な困難に直面しながら、延々と営みを続けてきたことには感動を覚えるのは確かだが、その多くは、餓えであり、殺し合いであり、権力の横暴である。終始、人間の愚かさばかりを突き付けられているようで、見ていて暗澹たる気持ちになる。人間存在に対する夢や希望を見出すことは難しい。

 勉強のために、もう一度見直してみたいと思うことは時々あったが、録画していたわけでもないので、なかなかそのチャンスを持てずにいた。そうしたところ、先月から、映像そのものが最新技術によってリニューアルされ、「新・映像の世紀」として放送されるようになった。今月末に第2回がある。夢や希望を見出しにくいとは言え、学習教材としては極めて優れたものなので、何かの機会に学校でも使えるように、今回は録画することにした。

 この番組は、番組の構成、映像の持つ力もさることながら、加古隆作曲によるテーマ音楽も大きな力を持っている。作曲者によれば、「悲しく、愚かな戦争の繰り返しの一方で、科学・芸術の分野で素晴らしい進歩も示した20世紀を表現するスケールの大きさがコンセプト」(JASRACのホームページより)とのことだが、それが本当に作曲者の追求したコンセプトだとすれば、残念ながら作曲者の意図は果たされていない。少なくとも私はそう思う。生きるとはなんと苦しいことなのか、人間とはなんと愚かな生き物なのか、だがそれでも生き続けてきたし、生きて来ざるを得なかった・・・こんなことを、傷に塩でもすり込むように、ぐいぐいと心に刻みつけてくる暗澹たる音楽だ。この音楽は、「新・映像の世紀」でも変わることなく用いられている。

 さて、3日前にフランス・パリで大変なことが起こった。私は「テロ」という言葉をあまり使いたくない。政治権力を持つ人々が、敵を殊更に悪く言って自分に対する求心力を高めるという政治的意図で、「テロ」という言葉を使うことがあるような気がしてならないからだ。が、やはり「テロ」と言わざるを得ない。あまりにもメチャクチャだ、と思う。だが、それに続けて行われたフランス軍による空爆も、メチャクチャさにおいて変わるところはない。暴力は連鎖しながら少しずつ大きくなっていく。お互いに殺し、傷つけ合うと、それまでに払った大きな犠牲を無にするようで、引き返すことが出来なくなる。もちろん、メンツの問題も絡んでくる。新聞やテレビで様々な情報に接しながら、こんなことを考えている時だ。私の心の中で、あの加古隆の音楽が響き始めるのは。曲名が「パリは燃えているか」だというのは、あまりにもよくできた偶然だ。

 ところで、昨日、乙武洋匡氏が、ブログだかツイッターだかで、「ISの言うことにも耳を傾けなければ」と発信したところ、多くの批判が寄せられたというニュースがあった。至ってまともな意見だと思う。ご本人も言うとおり、別にそれはISの言い分を認め、テロに正当性を与えようとするものではないだろう。何が行われているにせよ、その人がなぜそのようなことをしたのか、冷静に耳を傾け、考えてみることは大切である。

 以前書いたことだが(→こちら)、人間という生き物は、あまりにも多くの問題を持っているにもかかわらず、自分を肯定的に見てくれる人間の言うことにしか耳を傾けないという性質がある。もちろん、太平洋戦争当時の日本を見てみても、そのような冷静で寛容な態度を他国が取っていたら違う動きをしたかというと、決してそんなことはなかったような気がする。刀折れ矢尽きるまで戦って、限界に達して敗戦を受け入れた後で、人々は始めて正気を取り戻した。それ以外になかったと思う。これをそのままIS問題に当てはめるなら、何が何でもISを壊滅させるべく、徹底的に軍事攻撃することが正しいやり方だ、ということになるだろう。しかし、それでは夢がなさ過ぎる。たとえ、それでISの壊滅に成功したとしても、逆に、人間の進歩の無さに対する無力感と絶望とが、心の中で大きくなってしまいそうだ。

 この間に見聞きした、多くの有識者のコメントの中で、私が一番共感を覚えたのは、昨日の河北新報に載った現代イスラム研究センター理事長・宮田律氏によるものだった。

「今回のテロを受けて気になるのは、日本政府が「国際的なテロとの戦いの中でしっかりと責任を果たしていく」という発言を繰り返している点だ。」日本が、「欧米側に立って戦争に参加していく印象を与えてしまうのは極めて良くない。」「理由もはっきりしないまま始まったイラク戦争を始め、「テロとの戦い」で、イスラム世界では膨大な数の民間人が巻き込まれ犠牲になっている。日本人は「テロとの戦い」という抽象的な表現ではなく、そこで起きている実像をよく知るべきだ。その上で、その戦いで「責任を果たす」ことが本当に日本の国益に合致するのか考えて欲しい。」「自爆テロにしか生きがいを見出せない若者を救うためには、教育や就業の機会を与えることが一番の解決になる。日本はこうした点でこそ貢献していくべきだろう。」

 ISに直接入り込んでいけない以上、宮田氏が言うように、若者に教育や就業のための援助をすることも容易ではない。それでもここには、暴力の連鎖を恐れず力尽くでねじ伏せようとするのとは違う希望の予感がある。どんなやり方をするにしても、どうせ困難があるならば、希望の予感を感じることが出来る方法にこそ挑戦すべきだろう。