小林秀雄について(5)

 普通に考えれば、前の小林の発言は、「開き直り」と言えるだろう。小林が戦時中大陸を訪ねた時に書いた文章は、決して戦争を美化するとか、侵略行為を正当化するとかいったものではないが、文学報国会の役員となったことや、その立場で、おそらくは戦意高揚のために行った講演等については、新日本文学会が問題視した通り、当時の政権=軍部に加担する行為であったと非難されても仕方がない。その時の状況下で、自分なりに真摯に生きようとした結果がそれらの行為であって、再び同じ状況に置かれた時に、自分がそれとは違う行動を取れるかといえば分からない、何しろ人間は自分を取り巻く環境の中で常に「今」を生きているのだから。ここに、「ドストエフスキーの生活」序文で語ったのと同じ、起こった出来事のかけがえのなさをそのまま認める意識があることは分かりやすい。
 おそらく、一見戦時中の自分の行動に対する反省を拒否したかのような発言について私が抱いた第一印象も、言いたいだけのことを言って、ぷいと横を向いてしまった人間に対する軽い反感であったと思う。
 だが、最近私は、前の発言にこそ、小林秀雄の「歴史観」すなわち、歴史とは何かという問いに対する答えがあるように思われてきた。それは、単に個人の体験のかけがえのなさこそが歴史の神髄だなどということではない。歴史は、人間を超えた何か大きな力によって動かされている、ということである。人間の反省など決して通用しない、もっと大きな力によって歴史は作られている。そう考える時、小林がもはや歴史の細部を見るしかないことがよく合点されるのであり、そこに見えるのは抗しがたい歴史の流れの中で悩み、苦しみ、真摯に生きる人間個々の相ばかりだということもまた、よく分かるのである。

「恐らく歴史は、僕等のそういう想いの中にしか生きてはいまい。歴史を愛する者にしか、歴史は美しくはあるまいから。ただ、この種の僕等の嘆息が、歴史の必然というものに対する僕等の感嘆の念に発していることを忘れまい。実朝の横死は、歴史という巨人の見事な創作になったどうにもならぬ悲劇である。」(「実朝」)

 ここで小林が書いている「そういう想い」とは、正岡子規の「実朝が30歳にもならずに死んでしまったのはとても残念だ。あと10年も生きていれば、どんなに優れた歌を多く残しただろう」という感慨を指す。この言葉には、上で述べたような小林の歴史に対する考え方が、実によく表れている。すなわち、歴史は人間の意思によって作られるのではない、歴史の中で否応のない人生を生きるからこそ、その人生が美しいのだ、ということである。
 私が、元々考えていたことから外れて、にわかに小林の歴史についての考えに触れておこうと思ったのは、彼の「人間の意思ではどうにもならない歴史」という考え方に、最近、妙に納得を覚えるからである。
 私もかつては運命論を否定し、この世は私たち自身が作るものだ、という強固な考えを持っていた。いい世の中は、自分たちで作っていくものではないか、今の世に不平不満を言ってどうするのだ。「夢」があった、と言うべきかも知れない。
 しかし、半世紀以上を生きてきたからか、いや、ウクライナの問題が起こったからか。果たして誰の意思によって世の中は作られるのだろうか?と思うようになってきた。文明と言い、デジタル化と言い、侵略戦争と言い、間違いなく人間が推し進めていることではあるが、どうしても、人間同士の冷静な議論によって方向性を変えることはできるような気がしない。巨大な組織があり、その中に組織の論理があり、様々な偶然によって、時には「狂人」としか思えないような人物が指導者となり、突拍子もないことを始める。暴走する社会は、誰が何としても止められない。それが「必然」、すなわち、人間を超える意思の力でなくて何によるであろうか。
 小林は、日中戦争から太平洋戦争という大きな歴史の流れに、そんな人間の意思を超えた恐るべき「必然」を見ていたのだ。歴史学者は、歴史を学ぶことによって、今後の歴史をより良いものに変えていくことができるという思想を持つだろう。小林にとって、それは人間の傲慢である。その小林に、歴史学者が言うような「歴史観」を求めて何になるだろう。このように考える時、小林にとって歴史とは、過去にかけがえのない時間を生きた人間達の言葉に素直に耳を傾け、共感し寄り添うことだったに違いないのである。(続く)