オリンピック(3)・・・人間社会を映す鏡

 夏休みに入る直前のこと。職員室のベランダから校庭を見ていたら、陸上部の生徒が「やり投げ」の練習をしていた。素人の私が見ても決して上手ではないことが分かるのだが、そんなこととは少し違う意味で感動的だった。スポーツの起源そのものではないか。
 おそらく、戦争や狩猟でいい結果を出すために、投げたり走ったりという能力が必要で、その能力を高めるために「投げる」とか「走る」とかいう動作を取り出して、一定の条件の中で競い合ったのだ。目的は競技に勝つことではなく、それをきっかけに高めた能力を使って、戦争や狩猟でいい結果を出すことである。
 やがて生活には余裕が生まれ、人間が獲得した「遊び心」というものもあって、競い合うことを特定の行為と結びつけることなく、広く肉体や精神を鍛えるための一般的方法にするとともに、複雑な競技形態を生み出していった。調べたわけではないが、スポーツの歴史というのはこういうものと考えてまず間違いあるまい。
 昨日既に書いたとおり、「オリンピックは肥大しすぎた」「曲がり角だ」と言われるようになって久しい。単にオリンピックの変質と言うだけではなく、それはスポーツそのものの変質でもあるだろう。
 同じようなことをたびたび書いて申し訳ないのだが、人間は石油を燃やすことで豊かになり、食べることの心配が極端に小さくなり、生活に余裕が生じた。言葉を換えれば、暇になった。その暇をどのようにしてつぶすか、となった時に、スポーツが爆発的に存在感を増すことになった。何しろ勝ち負けという形で、結果が極めて明瞭に見える。こと試合に関して言えば、短い時間の中でその結果に向かってドラマが作られる。これほど分かりやすく、しかも強い興奮を作り出すことが出来る装置は他にない。
 気分を害される方もいるかも知れないが、私はスポーツを目的化するのは、単なる暇つぶしであると考えている。試合に勝つという目標があって、そこに向けた激しい努力が行われるとしても、それは人生のシミュレーションであり、虚構に過ぎない。見ていて面白いのは確かだけれども、勝ったから、負けたからと言ってどうということもない。
 「いや、私はスポーツ選手から元気や勇気をもらっている」という人は少なくないだろう。それは社会におけるスポーツの大いなる価値だ。しかし、なぜスポーツからは勇気や元気をもらえるのに、生産や福祉などで直接人の生存を支えている人々の姿から勇気や元気をもらった、という話にはならないのだろう?それはスポーツが、虚構であるがゆえに凝縮されているからだ。こうして価値を転倒させるスポーツというものを、私は怖いと思う。
 そんな風に考える私にとって、あらゆるスポーツで「プロ」が生まれ、増えているのはいいことではない。それと同じく、オリンピックがこれほど仰々しく、巨大なイベントになってしまったことにも冷ややかだ。世界の一流選手が集まるのだから、最高の競技環境は保証して上げたい。しかし、そのことは今のような立派な競技場を作らなくてもできることだ。やはり3兆円はあまりにもふざけた数字だ。
 人が集まり、注目を集めるとなれば、政治家や利益を求める人たちが放っておくはずがない。それもお金がかかるようになる要因だろう。指を3本立てたとか、片膝をついたことが政治的な意思表示で、オリンピック憲章に違反するなどと批判するのは変な話である。オリンピックの開催そのものが十分に政治的である。オリンピックの招致が選挙の争点にもなり、膨大な税金を投ずることになるのだから、オリンピックが政治的でないことは不可能であり、政治的でないことが不可能であれば、政治家がそれを利用しない、もしくは自分に対する評価との関係で意識しないことも不可能である。オリンピックの政治性は、その規模に比例する。ましていわんや商業においてをや。
 根っこにある問題は、スポーツが完全に原点を離れてしまったことである。だが、これとて、スポーツだけが原点を離れたわけではない。生物としての人間の生活の全てが原点を離れてしまった。スポーツもその一部だ、というだけのことである。今を基準にして、より楽しいこと便利なこと楽なことを求める生活に、人間の原点とは何かなどという思考は邪魔なだけだろう。オリンピックは破滅へと向かう人間の姿を映す鏡なのである。(オリンピック終わり)