オリンピック(2)・・・お金のこと

 選手の笑顔を見ていれば、ああ、この人達に活躍の場を与えられて良かった、とは思う。彼らが「努力は必ず報われる」「夢を持ち続けることは大切だ」と涙するのを見れば、なんという力あるメッセージかとも一瞬は思う。だが、オリンピック選手となり、その中でメダルを取ったというような人ばかり取材していれば、そんな話になるのは当たり前ではないか。背後には全てを犠牲にして努力したにもかかわらず、オリンピックへの出場さえかなわなかった人が五万といるのだ。
 加えて、かれらが大きな喜びと栄誉を得たオリンピックを開催するために、いったいどれほどのお金が費やされたか、ということを考えると、一気に夢は覚める。
 今回のオリンピックに一体どれほどの税金が費やされたか。その全貌はよく見えない。途方もない金額だからということもあり、政権は正直かつ積極的に公表しようとしないからでもあるようだ。どこまでをオリンピックの経費と考えるか、という問題もある。
 オリンピックを東京に招致した時の話では、経費は7,000億円ほどという話だった。その後、経費は勢いよく膨張を続け、もう3年くらいも前から、3兆円説が語られるようになった。
 私が目にした中では、8月13日付けの『週刊ポスト』のものが最も新しいのだが、そこでは大会経費と関連費用の合計が、東京都負担は1兆4,519億円、国負担は1兆3,059億円となっている。合わせて2兆7,578億円、1人あたりの負担額でいえば、都民が103,092円、国民が10,408円であるが、「国民」の中には都民も含まれるので、実際には、都民の負担額は足して113,500円となる。生まれた瞬間の赤ん坊から、死ぬ間際の方まで含めての負担額だ。
 もちろん、実際にはこれで済むわけはない。競技施設(=負の遺産)があるからである。都内にある7つの施設のうち、今後、黒字経営が出来そうなのは有明アリーナだけだと言われている。年間の維持費が50億円以上かかるのに、それだけの収入が見込めないため、国立競技場の赤字を別にしても、毎年7億円以上の税金を投じる必要が出るらしい。最大の赤字を出すのが国立競技場であることは見え見えなので、7億どころか、実際にはその倍、いやいやそれ以上にもなるのではないか?そしていずれは数十億円単位の修理や改修工事が必要になる。ああ恐ろし。
 3兆円説が流布した後で、2億7,578億円など聞くと、安く済んでよかったねなどと思うかも知れないが、この金額の途方もなさが実感できないのは「麻痺」である。自分が直接支払うのではないことによって、1億円というお金が1万円くらいに見えているのではないか?なにしろ私たち一般庶民の生涯賃金は2億円前後、昨年、新会員の任命問題が起こった時、政府がまるで無駄遣いの象徴ででもあるかのように言った日本学術会議の1年間の運営費が10億円なのである。1億円というのは途方もない金額であり、1兆円というのは天文学的数字である。あの開会式に165億円かかったとか聞くと、私にはどうすればそれだけのお金が使えるのか想像すらつかない。
 さて、私たちはテレビを見ながら「元気をもらった」「勇気をもらった」と言って、このような支出を容認していいのだろうか?
 スポーツにどれくらいの価値を認めるかは、いわば趣味の世界である。1人の歌手のコンサートに、5万円を出しても惜しくないと思う人も、チケットをもらっても行かないという人もいる。趣味の価値とはそういうものだ。チケットの値段は、需給関係で決めればいい。だが、オリンピックの支出というのは、全員にチケットの購入を強制するのと同じことである。スポーツもしくはオリンピックに興味のある人にもない人にも、負担は等しく求められる。果たしてそれが、スポーツファン、オリンピックファン以外にも支出に見合った何かをもたらしたのか?冷静に考えてみる必要があるだろう。
 「オリンピックは肥大しすぎた」「曲がり角だ」ということがよく言われる。確かにそうなのだ。それだけのお金をかけなければ、スポーツが出来ないのではなく、したがって、3兆円は「必然」だったのではない。強い虚栄心や、景気のいい話に浮かれる性質、お金を費やせばそれを上回る見返りがあるという強欲とによって、見境なく出費した結果が3兆円なのだ。