東電の株主代表訴訟

 水曜日、東京地裁で、福島原発事故に関する株主代表訴訟の判決が出て、東京電力の元役員4人に対し、13兆3210億円の支払い命令が出された。これは、翌日の新聞各紙で大々的に報道された上、昨日の全国3紙と河北が一斉に社説で取り上げてもいた。これほど緊急性のない話題が、一斉に社説で取り上げられたのは珍しいのではないだろうか?
 さて、どの新聞も、国の責任を不問とした先月の最高裁判決との矛盾や、原発が「国策民営」で行われて来たことを問題視しているのは当然である。
 最近、何かと共感を覚える読売新聞の社説は、冒頭で「払えるはずのない金額を個人に負わせる判決は、裁判の意義にも疑問を抱かせかねない」と指摘している。実は、判決に関する報道を目にした時、私が最初に思ったのもこのことであった。
 膨大な借金によってかろうじて成り立っている日本の国家予算が107兆円である。13兆円と言えば、その12%を超える。読売は「天文学的数字」「防衛予算の2倍以上」とその驚きを表現する。まったくだ。「13」とか「107」とか言えば、さほど大きな数にも見えないが、1兆円が1万億円であることを考えると、正に想像を絶する金額だ。一見端数に見える「3210億円」だけでも、4人の個人が支払う金額としては「天文学的数字」に近い。アメリカあたりでは、複数の重犯罪を犯した人に対して、事務的に計算した結果、個人の人生の長さを超える120年とか、150年とかいった懲役刑の判決が出ることがあるらしいが、私はそんなことを思い出した。こんな支払えるはずのない金額を支払いを命じるのは、罪の大きさを実感させるための象徴的な行為なのかもしれないが、それにしても極端ではないか?読売社説に言うとおり、「原発は国策で推進してきた。東電の責任は重いとはいえ、国の責任を棚上げし、4人の個人に全てを負わせることが妥当なのか」と私も思う。ただし、責任主体は国だけではない。
 判決に違和感を持つと、そもそも役員はなぜ役員なのか、という問題にぶち当たる。例えば、私のような県立高校の教員が何かしらのミスをして損害賠償が必要になった場合、被害者は県に損害賠償請求をし、それが認められたら県がお金を払う。ミスをした私ではない。県が私を任命し、監督義務を負っているからである。平居が日頃からミスをするので、校長が再三再四具体的に問題を指摘し、私に改善を求めていたのに、私がそれを無視し続けたというような重過失があると県が判断すると、県は私に求償権というものを行使する。つまり、これは監督者である県ではなく、明らかに平居が悪く、平居は県に損害を発生させたのだからそれを償え、というわけだ。確か、平凡なミスではダメで、重過失であることが求償権行使の条件のはずである。
 つまり、東電の役員とて、自分たちで勝手に役員を名乗っていたわけではなく、誰かが任命したわけだから、任命者の任命・監督責任というのはそれなりに大きい。なぜその点は問題とされないのだろう?・・・と考えていて、どうも変だぞ、と思った。役員を選任するのは株主ではなかったっけか?私のデタラメな政治経済の知識によれば、会社(企業)は株主の持ち物で、役員を中心とする社員は、株主から経営を委託されているに過ぎない。仮に実質が違ったとしても、手続き上はそうなっているのではなかったか?役員人事を始めとして、会社の経営に関する一切は、株主総会で決定されるのではなかったか?実際、東芝では、役員人事案が、株主総会で再三否決されたではないか。
 株主は、会社の不祥事に対してむしろ責任を負うべきではないのか?なぜその株主が、自分たちが選任した役員のミスを訴えることができるのだ?仮に、4人の元役員が13兆円あまりの支払いに応じたとして、そのお金が東京電力に入り、経営が順調に回復すれば、株価が上がり、配当金が増えて、株主が恩恵を受ける。会社が利益を上げることによって自分たちが儲けるのはよくて、会社が損失を出した時には、自分たちの損失を自分たちが選任した役員に負わせる、というのはずいぶんと都合のいい話だ。
 新聞(とりあえず手元にある毎日)によれば、株主代表訴訟とは、企業が経営陣の責任を追及しない場合に、株主が代わって追求できる仕組みだという。この場合の「企業」とは何なのだろう?何から何まで、どうも分かりにくい。
 4人は当然控訴するだろうし、最高裁判決との関係があるので、今後、今回の判決がそのまま維持されていく可能性は低いだろう。ともかく、個人に責任を負わせるだけでは何も解決しない。本当に問題なのは何なのか、裁判所にはそれをしっかり考えてほしいものだ。私は国民全員の欲望こそが諸悪の根源であって、それが東電なり原発なりを通して表れているだけだと思うのだけれど・・・。