最近、東京オリンピック開催可能性についての議論を、新聞紙上で頻繁に目にする。これは、政府やIOCが実施に対して強気であることに対する批判的な意味合いを強く帯びている。あまりにも当然であろう。
10月の末か11月くらいから始まった「第三波」が、一向に衰える気配を見せないまま、むしろ悪化の一途をたどりながら今に至っている。医療崩壊が切羽詰まったこととして取り沙汰されている。収束の見通しは一切立っていない。仮に多少の小康を得ることがあったとしても、少し油断した瞬間に再燃することも目に見えている。そんな中で、1万を超えるとも言われる医療スタッフをオリンピックのためだけに確保するというのは、どう考えても現実離れをしている。現在2~3人の会食でさえ憚られるのに、選手・役員だけで2万人近いという大会を、半年後に開催するのは間違いなく不可能だ。
それでも、政府が強気なのは、多くの人間の利害がかかっているからである。多分それは選手ではない。金のにおいに群がる性質を持つ人々であり、その中心には政治家たち(特に自民党)がいる。現在の通常国会で、首相がコロナ対策を力説するのはけっこうだが、私などは、国民の命と健康を守るためではなく、自分たちのためにオリンピックが開けなくなると困るからだろうという目で見てしまう。ただのひねくれ者かも知れないし、冷静に物事を見つめることが出来ているということなのかも知れない。
「人間ならば誰にでも、現実の全てが見えるわけではない。多くの人は、見たいと欲する現実しか見ない」。これは塩野七生が『ローマ人の物語Ⅵ』(他の巻にもあるかも)で紹介するカエサルの言葉だ。先日亡くなった歴史作家の半藤一利氏は『昭和史』の終章で、昭和の20年史が私たちに与える教訓の3番目として、「物事は自分の希望するように動くと考え」たことを挙げている。本文で言えば、開戦後間もない時期、日本軍が破竹の進撃を続けていた時期について、「最初から長期戦になることは分かっていたはずなのに、そうしたくない思いの方が強いものですから、『したくない』が『ならないだろう』の思いに通じ、最後は『長期戦にはならないのだ』と決めつけてしまっ」たことを書いている部分、がぴったりと対応する。
今の日本政府は、まったくその状態にあるのではないのだろうか?金のためにオリンピックを実現したいという思いがあまりにも強いものだから、それが出来ないという可能性を想定できなくなっているのだ。歴史を学ぶ意味というのは、それによって自分自身を客観視できる点にあると思うのだが、日本学術会議を歯牙にもかけず、学術の価値は自分たちに判断できると思っているから競争的資金を増やす、知性とか批判的精神とかが大嫌いな政府中枢部分の面々には、歴史を学ぶこともまた不可能であろうから、おそらくカエサルも半藤氏も視野には入ることはない。仮に視野には入ったとしても、それを自分事として理解することは不可能であろう。その結果としての「開催できる」だ。
「出来る、出来る」と言い続ければ言い続けるほど、実際に出来なかった時のダメージは大きい。だから政治家は、自分自身のためだけを思っても、もう少し冷静な判断をするべきだ。それがまったく出来ないがために、本当に「開催できる」と信じているとすれば、その人たちが国政の他の多くの問題についても大きな権限を持ち、それを行使しているというのは恐ろしいことだ。同時に、JOCや東京都の事務局の下々の方々の中には、心の中で無理と思いつつ、大きな徒労感を感じながら身を粉にして働いているであろう人も多いであろうと想像し、大いに同情する。
人生の全てをかけて技術の向上に努めてきた選手には気の毒だ。だが、私はそもそも、現在の肥大化しすぎてしまったスポーツに批判的だ。簡単に言ってしまえば、今のスポーツは、石油を燃やすことで分不相応に豊かな生活をし、暇を持て余すようになってしまった人間に、興奮を人為的に発生させることで暇つぶしをさせるための装置である、と思っている。芸術などでも同様のことはあるのだけれど、スポーツは勝ち負けがはっきりする分だけ、良くも悪くもより一層影響力が大きい。どこのチーム、あるいは誰が勝ったか負けたかが、食糧を確保するとか、温暖化をどうやって阻止するかよりもはるかに大きな問題であるかのように話題にされ、何でもかんでも、誰でも彼でも、みんなプロとして食べていこうとする。学校の中のシステムも、進学も就職も、スポーツ或いはその成績を基準に行われることが少なくない。それは異常な社会だ。
オリンピックが中止になることで、そのことについて問い直しが行われるようになるとまで期待しているわけではないけれど、少なくとも、スポーツが全てに優先するかのようなゆがみを認識する、小さなきっかけになることくらいまでは期待してもいいだろう。その意味でも、私はオリンピックはこの際中止した方がいい、と思っている。