「見える」ものと「見えない」もの

 宮城県の新規感染者数は、この連休中ほぼ50人未満で、かなり落ち着いてきた。10万人当たりの感染者数で、一時はぶっちぎりの全国1位(最多)だったのに、今や下から10番以内に入っているという状況だ。もちろん、それはいいことなのであって、数が少なくなったから「あぁ、負けた!」などと言っているのは不謹慎である。
 今日は、札幌でオリンピックの予行演習を兼ねたハーフ・マラソン大会が開催された。沿道では、「五輪ムリ 現実見よ」などといったプラカードを掲げていた人もいたらしい。昨今の状況を見るに、どう考えても「開催する」という選択肢はあり得ない。にもかかわらず、政府は一貫して全くぶれず、開催へ向けて一直線に進んでいる。昨日の新聞では、200人のスポーツドクターを募集しているという記事が載っていた。しかも、医師に「無報酬で」と言っているというから驚く。信じがたいほどの強気だ。
 「ああ、例によってアホな政治家は分かっていねぇなぁ」と思いかけて、「実は、逆によく分かっているから強気なのではないか?」というふうに思い直した。「分かっている」というのは、コロナ蔓延の状況や感染症対策のあり方についてではなく、哀しい国民の性質について、である。
 オリンピックが始まれば、テレビの主役はオリンピックになる。日本人選手が勝てば、単純な国民は熱狂する。テレビに映っている選手は「見える」が、感染者や病院・保健所の様子は「見えない」。すると、大切なのは当然オリンピックだ。大会期間中に選手から感染者続出で、試合の続行が物理的に不可能になったということでもない限り、いざ始まってしまえば、人は脳天気にオリンピックに興ずるに違いないのである。
 そしてめでたく目標とする数のメダルでも獲得してオリンピックが終わったとすれば、ああ、やって良かった、政府の判断は正しかった、として、政府の株は急上昇する。仮に目標とするだけのメダルが取れなかったとしても、マスコミは何かしらのドラマをうまく作るだろうから、「やって良かったね」にはなるであろう。繰り返すが、オリンピックは見える、病院や保健所の様子は「見えない」、人は「見える」ものが全て。もしかすると、私などにはよく分からない政治的な力学やそろばん勘定が他にもたくさんあるのかも知れないが、それもたいていは「見えない」もの、である。
 おそらく、首相をはじめとする自民党の政治家には、そんなことがとてもよく「見え」ている。