心の強さ、弱さ

(タイトルは違うが、昨日の続き。)

 『女たちの長征』だけではなく、中国革命の本などを読んでいると、あらゆる所から感じるのは「人間は強い」ということである。昨日書いた鄧穎超の事例なども正にそのことをよく表している。
 最近、「心が折れる」という話をよく聞く。教員に精神を病んで休職する人間が多いというのは有名な話。私が日頃接している生徒にも、いろいろな理由で学校に来られないということが起こる。コロナウイルスの感染者が身近なところで出たとか、学校に爆破予告が届いたとか、何かことが起こるたびにすぐ「心のケア」をどうする?という話になる。むやみに「心のケア」などと言って手を差し伸べていると、人間はますます弱くなるという悪循環を起こすので、本人が求めてきた時に話を聞いてあげるくらいがいいところで、あまり親切はしない方がいい。私は常々そう言っている。
 長征中の毎日なんて、今なら「心のケア」が必要なことのオンパレードだ。しかし、彼女たちは、耐える以外にどうすることもできなかった。耐えられなければのたれ死ぬか、国民党軍に殺されるしかなかったのである。しかし、そんな中でほとんどの女性が生き延び、狂気に至ることもなく、昨日引用した鄧穎超の言葉にあったように、「楽しかった」とさえ言う。彼女たちは奇跡的に陝北革命根拠地に到着した後、共産党の中心に立って、革命の成就のために努力を続けた。昨日に続き、鄧穎超の言葉を借りる。

「ある確固とした信念が私を勇気づけていました。--革命の前途は明るい、私の病気もきっと治る。治らなければならない、党と革命のためにもっと働くために。」

 極限状況下で、おそらくは根拠らしい根拠もなく、「革命の前途は明るい」と言える感覚は尋常でない。だが、この言葉からは、彼女たちが長征に耐えられた理由が楽観性だけではなかったことが分かる。それは目的意識や使命感の存在である。人間は内側から支えられている時にこそ強靱なのであり、それはほとんど宗教的信念とでも言うべきものだ。
 ところが、驚くべきことに、長征に耐えたほどの人たちでも、耐えられないことが存在した。『女たちの長征』の後日談的部分を読むと、彼女たちが精神を病んだり、そのあげく自殺を試みたりする話が出てくる。
 例えば、毛沢東夫人賀子珍は、毛沢東と不仲になることによって精神を病んだ。甘棠は文化大革命中に、かつて敵の捕虜になった時に敵の中隊長から暴行を受けた過去を暴露され、はやし立てられることで自己の殻に閉じこもるようになった。危挟之は、1943年の整風運動の際、スパイとのレッテルを貼られたことを苦として自殺未遂をした。
 長征とこれらの違いは何か?それは、仲間を心から信頼できるかどうか、ということと、苦しみの原因を納得して受け入れられるかどうか、ということだったのではないか?長征の苦しみが、革命という理想を追い求めるためのハードルとして納得して受け入れられるのに対して、その後の苦しみは信頼する人や仲間に裏切られ、不当に自分の名誉を傷つけられるという、本人にとって納得のできない、精神的な苦しみだったということである。
 そう思うと、身の危険や食糧の有無と、心を病むかどうかはあまり関係がない、ということになる。現在の豊かな日本で安穏とした生活をしながら心を病むのも、「甘えている」とか「ケシカラン」とか言うようなものではないらしい。仲間が信頼できずに孤立していたり、自分の尊厳が傷つけられていると感じれば、その他の状況には関係なく、人は心を病むのだ。人間離れをして強靱であることも、心を病んで正常な生活ができなくなることも、同じ人間について起こり得る。
 長征の話を離れて、人間の強さと弱さについてひどく考えさせられた。