『女たちの長征』

 外出自粛、というだけでなく、いろいろと勉強したいことがあって、1日だけ母親の生活支援に行った以外、自宅で読書その他に時間を費やしていた。かつて読んだことのある本を手にすることが多かったのだが、そんな中で、唯一初めて読んだ本として『女たちの長征-紅軍第1方面軍女性兵士30人の記録』(郭晨著、田口佐紀子訳、徳間書店刊、1989年)があった。
 長征とは、国民党の執拗で激しい攻撃の結果、江西省の革命根拠地を放棄せざるを得なくなった共産党が、1934年10月から、1年をかけて陝西省の革命根拠地に到達した大逃亡作戦である。空からも陸からも国民党軍に追われながら、険しく高い山や底なし沼の続く草原を越え、12500㎞を歩き通したという、人類史上でも類例のないスケールの集団移動であった。・・・これは、少しでも中国史をかじったことのある人にとっては「常識」である。
 江西省を出発した時には10万人と言われた共産党軍の中に、女性はわずか30人。毛沢東夫人・賀子珍、周恩来夫人・鄧穎超、朱徳夫人・康克清など、そのほとんど幹部の夫人たちであった。もしかすると、女性として大切にされ、優遇されたこともあったかも知れないにせよ、それにしても大変な道中であっただろうとは思っていたが、今回、この本を読んで、その大変さが想像をはるかに超えていたことを知り、改めて人間の強さ、偉大さというものに感じ入った。
 なにしろ世界史的な大イベントであり、中国革命のロマンを最も強く感じさせる場面なので、長征に関する研究や書物は、中国のみならず、世界中で多く発表されている。しかし、長征中の記録で残されたものは限られているので、執筆のための史料の多くは、参加者が後に書いた回想である。その中心は、どうしても作戦や戦闘行為に関するものであり、彼らがどのようにして日々を過ごしていたかという私的レベルの話は意外に少ない。
 この本は、著者による「編集後記」によれば、ほとんどの部分が著者による聞き取りによって書かれたらしい。回想と聞き取りは決定的に違う。回想が、執筆者が語りたいことを書くだけなのに対して、聞き取りは聞く側の問題意識が反映される。それは、読者が知りたいと思うことと重なり合うだろう。読んでいると、いくらなんでも信じがたいと思えるような話にも多く出くわすが、多少割り引きながら読むとしても、そこに描かれた生活そのものの生々しさは、他の長征関係書籍とかなり質を異にする。新鮮と言うべきか、衝撃的と言うべきか・・・。食糧にあまりにも事欠いていたため、牛の糞の中に混じっていた麦を集めて食糧とした話。生理用品もなく、衣服もボロボロ、髪を洗う機会もなく、シラミが大量に湧くため、みな坊主頭にした話。更に、妊娠した女性、出産の悲劇。彼女たちはいかに身重でも、子どもを産んでも、立ち止まることが許されなかった。敵に追われながら大きなお腹で毎日数十㎞を歩き、出産と同時に、赤ん坊を置き去りにして隊列に追いつかねばならなかった。
 今の私たちの感覚からすれば、それは人間が耐えられる生活ではない。しかし、彼女たちは耐えた。耐えたどころか、そんな生活に楽しさや喜びを見出している節さえある。例えば、鄧穎超は肺結核であった。しかもかなり重く、出発直前に大量の喀血もしている。さすがに担架に乗せられていたらしいが、それでも、「栄養を取って安静」とは正反対の毎日だ。鄧はそんな毎日を次のように回想している。

「長征は一面では私たちの肉体や生活に極限の試練を与えましたが、それと同時に、大自然は私たちにもっとも豊かな、今までに受けたことのない恵みをも与えてくれました。とても楽しいものでしたよ。それに私たちは楽観主義者でしたから、苦しいと思ったことはありませんね。困難が私たちを励まし、大自然もまた私たちを前進するよう励まし、魅了しました。」
「自然の景色の移り変わり、草花が咲き乱れたり氷と雪に閉じ込められたり、とてもおもしろかったわ。」

 この感覚に驚嘆する。いくら「楽観主義者」だと言っても、極限的に過酷な生活の中で、なぜ「とても楽しい・おもしろい」と感じることができたのか?敵と病気に絶えず脅かされ、どこからどう見ても「楽しい」要素など見当たらない。「驚嘆」というより「呆れる」のだ。最終的に彼らは逃げ延び、共産党が国民党に勝利して中華人民共和国の建国を果たした、そんな筋書きが今の私には見えているからこそ、長征にある種のロマンさえ感じることができるのだが、当時にしてみれば、ただの「乞食の行列」でしかないのである。絶体絶命、生き延びられる可能性は1%もあったかどうか、だ。
 かつて、南アフリカ大統領ネルソン・マンデラ氏が亡くなった時に書いたことだが(→こちら)、革命家には楽天的な人が多い。いや、「多い」のではなく、「全て」であろう。楽天的な性格でなければ、成功する可能性の少ない革命に挑戦できるはずがない。革命家は大胆でありながら周到であると同時に、楽天的であることが必然である。

 長征が終わり、延安に住むようになった1937年5月、鄧は病気治療のため北京へ行くことが許可された。北京でレントゲン写真を撮ったところ、肺には7ヶ所の固まった結核の跡が見出された。いつの間にか、鄧の結核は治っていたのである。

(続く)