「誓ってはならない」



 かつて、私が最も繰り返し読んだ本、すなわち愛読書として『聖書』の名前を挙げたことがある(→こちら)。特に『新約聖書』の福音書は、人間の性質を描いた比類の無いドラマであると思う。この30年余り、私の聖書との関係も聖書観も変わっていない。しかし、折に触れて、大きな共感を感じる場所は変わる。かつて、中国革命との関係で、永遠の命を得るために持ち物を全て手放せ、とイエスが諭す場面を取り上げたことがある(→こちら)。今、私がよく思い浮かべるのは、「誓ってはならない」の場面である(マタイ伝なら第5章)。

 イエスは40日間の荒野の試練に耐えた後、ガリラヤ地方をくまなく歩き回りながら、人々に奇跡を施し、弟子を集め、群衆に福音を述べ伝えた。そして最後に山に登り、弟子たちに対して長い説教をする。「いっさい誓ってはならない」という言葉は、この時に発せられた。

 しばらく時が経ち、最後の晩餐を終えたイエスは、弟子たちとともにオリーブ山に行った。この時、イエスは、ペテロに対し、「今夜、鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」と予言する。ペテロは「たといあなたと一緒に死なねばならなくなっても、あなたを知らないなどとは、決して申しません」と誓う。ところが、この直後にイエスが捕らえられると、ペテロは三度、イエスのことを知らないと言うのである。そのあまりにも印象的な場面は引用しておこう(マタイ伝第26章)。


 「確かにあなたも彼らの仲間だ。言葉づかいであなたのことが分かる」。彼(ペテロ)は「その人のことは何も知らない」と言って、激しく誓い始めた。するとすぐ鶏が鳴いた。ペテロは、「鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うであろう」と言われたイエスの言葉を思い出し、外に出て激しく泣いた。


 誓った時に、ペテロはイエスが本当に捕えられるとは思っていない。現実に捕えられると、イエスの仲間であることによって、自分自身も危険にさらされるという意識が強く働き、イエスを裏切り、関係を否定してしまう。当初の「たといあなたと一緒に死なねばならなくなっても、あなたを知らないなどとは、決して申しません」という誓いは破られ、山におけるイエスの説教は成就するのである。

 確かにそうなのだ、と思う。身に危険の無い状態で、ペテロのように誓うことは出来る。だが、いざ、目の前に死がちらつき始めると、そこから逃れることが最優先になってしまう。ペテロを笑うことの出来る人はいるまい。人の気持ちは状況の中で変化する。恋をした時、誰かに裏切られたり、大きな失敗をしたりした時、通常では考えられないような異常な心理に陥ることは、誰しも経験があるのではないだろうか?

 なぜ、こんなことを書くかと言うと、福井県勝山市で起きた大学教員による女子大生殺人事件の報道を見ながら、聖書におけるこれらの箇所が、繰り返し私の頭に浮かんだからである。

 人を殺すというのは、異常な行為だ。まともな感覚の人間には、やっていいと言われても出来ないことだろう。だから、人を殺せたというのは、何らかの事情で正気を失っていたということなのだ。詳細は分からないけれど、経歴や写真を見る限りとても悪人とは思えない某氏が、これまた変な人には見えない女子大生を殺すからには、何か特殊な事情があったに違いない。男女関係のもつれというのは容易に想像がつくし、報道でもそのように語られているけれども、その時の心理というのは、外野にいる第三者には想像できないものである。某氏には奥さんがいる、などと言っても始まらない。日頃から怪しげな行動を繰り返しているチンピラとはわけが違う。

 もちろん、現在の私が、私も状況によっては人殺しをする可能性がある、などと思っているわけではないが、かと言って、そんなことは絶対にないと断言していいものかどうか・・・、聖書の言葉を思い出しながら空恐ろしい気分に陥るのである。少なくとも、勝山の某氏を責める気にはなれない。