性の絶食化ということ



 精神的不調に陥り、字を書く気にもならずにいた。先週末は、学年の分散旅行で神戸に行くのをチャンスとして利用し、1人で3日かけて六甲山を縦走しようと計画していたのだが、どうしても行く気にならず、直前にキャンセルしてしまった。今もあまり意欲は湧かないが、ぼちぼち・・・。

 今日の『毎日新聞』「くらしの明日」欄で、中央大学教授・山田昌弘氏が、「性の絶食化」という問題について論じていた。東京都幼・小・中・高心性教育研究会が行った「児童生徒の性に関する調査」によれば、中学3年生を対象とした「あなたは今まで性的接触をしたいと思ったことがありますか」という質問に対し、「ある」と答えた率が、1987年には男86%、女36%で、90年代にはやや低下したものの、男68%、女35%前後で推移していたが、2014年には男25.7%、女10.9%と急激に低下した。これはもはや「草食化」ではなく、「絶食化」だと山田氏は言うのである。山田氏はこの後、日本性教育協会や、国立社会保障・人口問題研究所による調査結果をも紹介しつつ、その原因を考察しているが、そちらは通り一遍の感が強い。

 本能レベルにおける変化としては大きすぎる、と私も思う。ここでふと思い浮かぶのが、フロイトだ。私は精神分析学や心理学に特に詳しいわけでもないのだが、大雑把に言って、フロイトの発見とは、人間の行為は無意識に支配されており、無意識の力は性的な衝動に基づく、そして現実の行動は無意識の力と意識的な自我との力関係によって決定され、その決定には幼児期の親子関係が重要な役割を果たす、というものである。更に大雑把に言うならば、人間の行動は意識できない性的衝動(性欲)に大きく影響を受けている、ということになろうか。もしもこの理解が正しければ、性的衝動が小さくなると、人間の行動全体が活力低下を起こす、ということになる。フロイトが言っている性的な力は無意識下のものなので、性的接触をしたいと思うか?というような、明白に意識的な部分とイコールではない。しかし、性に関する意識が明瞭に変化していながら、無意識下の性は変化していないなどということがあるはずがない。むしろ、意識上の性意識の変化は、無意識下の大きな変化の反映であるはずだ。だとすれば、これは非常に深刻なことだと思う。ことはセックス願望とか少子化といったレベルではない。活動全体の低下なのである。

 そういえば、先日、宮城県石巻地区の高校入試の倍率に触れて、「今時の生徒は一生懸命勉強するのが嫌で、普通科の、ほどほどな、楽しく3年間を過ごせそうな学校に入ろうとするのではないか」とか、「最近の高校生を見ていると、どうしてもこの大学に行きたい、と言って頑張るのではなく、行ける大学に行く、という傾向がある」といったようなことを書いた(→こちら)。これとて、人間(日本人?)の全体的な活動力の低下の結果であるように思われてくる。果たして、性の「絶食化」と関係しないのかどうか・・・?

 私も原因を考えてみる。山田氏の指摘にはあまり納得しない。長くなるので山田氏の指摘は省略するが、私の方が物質的だ。文明が発達して、人間が自然から離れてしまった結果であり、身の回りを埋め尽くす化学物質による体質の変化だ、というのが私の考えである。だが、いささか問題もある。デュレックス社が行った、世界各国の人々が、年にどれくらい性行為をするかという調査(→こちら)によれば、10年ほど前のデータだが、他国との比較で日本人は性行為回数が極端に少なく、性生活満足度も極端に低い。性生活偏差値30未満といった感じなのだ。つまり、イギリス、フランス、アメリカといった文明度の高い国々でも、日本のような草食化は起こっていない。従って、日本人の淡泊な性意識と文明との間に関係があるかどうかは怪しい。

 では、いったいなぜなのか?結局、私には分からない。だが、それでもやはり、若者の絶食化が、本能に関わる問題であるだけに深刻だということ、それが性だけではなく、あらゆる活動のエネルギーと関係しているだろう、という点については確かだと思われる。教育でどうこうするという問題にも思われないし、対症療法は状況を悪化させるだけだという持論も変わらない。性欲に充ち満ちて、みんながギラギラしているというのも嫌だけれど、これはとにかく困った話だ。そう言えば、この10日ほどの何をする気にもならない私の心理も、この問題と関係していたりして・・・?(笑)