震災から4年・・・前言撤回・原発問題



 昨日で震災から4年が経った。3年くらいで一区切り、大騒ぎも沈静化するのかと思っていたが、各メディアでの「大特集」を始めとして、相も変わらずといった感じだ。

 新聞でも、各社それぞれに被災者アンケートのようなものを載せていた。見ていて、どれもこれも無理のあるアンケートだなぁ、と思った。被災地とは言っても、被災の程度は各自バラバラである。その人たちに復旧の実感など尋ねたところで、実態を反映したデータが得られるわけがない。そもそも、復旧がどのような状態かということについての共通認識も存在しない。加えて、人間は利益に弱い。震災で大変だ、復旧にはほど遠いと騒いでいた方が、「得」は絶対に大きい。「もう大丈夫、後は自分たちでなんとかできます」などと言って、お金や特権(特例措置)を引き上げられるのは嫌なのである。人間には、常に自分たちに関心を持っていて欲しい、人からちやほやされたい、という心理もある。

 被災地・被災者を支援する側の人たちも似たり寄ったりだ。実に申し訳ない話だが、私が見たところ、純粋に被災者のために支援活動をしている人というのはそんなに多くない。支援者の側にも、自分たち自身の充実感、もう少し本音に近い言い方をすれば、支援をすることで自分自身の存在意義を確かめているような人たちが少なくない。

 無駄に豊かで暇な世の中では、支援する側にとってもされる側にとっても、震災は生きる目的を回復させてくれる格好のネタなのである。

 少し別な話。昨日、福島第一原発廃炉にすることについての報道を見ていた。それはやはり、ひどく危険で長期的な作業なのだということを、改めて強く感じさせられた。妻と、チェルノブイリみたいに、セメントで固めてしまえばいいのに、と話しあった。津波よりも原発の方が、人間の愚かさを映し出すという点ではるかに教訓的である。だとすれば、石巻の門脇小学校や南三陸の防災庁舎を震災遺構として残すよりは、原発を残した方がよい。そのためにも、セメントで固めてしまうというのはよい方法なのではないか?と思った。

 私は、震災から3ヶ月後に、原発に触れて、「50年かかって作ってきた原発は、50年かけて廃止すべきだ」というようなことを書いた(→こちら)。消費税の時(→こちら)と同じように、最近、前言撤回の必要性を感じている。

 私が当時、50年がかりでの脱原発を主張したのは、突然全ての原発を止めれば、日本の社会が成り立たないと思ったからである。あまり急激な変化に、人間は対応できない。

 ところが、その後、全ての原発が停止したにもかかわらず、新しい火力発電所を作ったわけでもないのに、なぜか電気は不足していない。最初の年こそ「節電」が叫ばれたが、子供だまし程度のものに終わってしまった上、今ではほとんど誰も意識していない。原発への依存がその程度のものであったとしたら、なにも50年をかけることなく、このまま脱原発した方がいいに決まっている。そもそも、私が当初言っていた「50年がかりの脱原発」は、現実に配慮しているようでいながら、逆に机上の空論だったのではないか、と思うようになってきた。50年かけて原発にさよならしましょうね、今はとりあえず仕方ないから、運転してもいいですよ、などと言ったら、事実の上にあぐらをかき、電力会社は新しい電源開発へも、原発の停止に向けても動き始めず、あっという間に50年、ということになるような気がする。だからこの際、原発は再稼働させず、そのまま廃止に持ち込むのが一番いい。いや、それしかない。

 いつも言っているとおり、資源のない日本で、日本人が湯水のようにエネルギー(基本は石油)を消費しながら生活しているのは間違いだ。心がけひとつで、30〜50%くらいの節エネは簡単だと思うが、なぜか真剣に実行される気配はない。しかし、それはやはり必須であろう。原発を廃止して、他の発電手段で、今までと同じ、もしくは今まで以上の電力を供給するというのはバカげている。原発を止めた分の全てを節電で補う。最低でもそれくらいは必要だろう。ことは電力需給の問題だけではない。温暖化の問題に対する危機感も忘れてはいけないのである。浪費社会と商業主義の結果が、原発である。事故を起こした原発だけを悪者にするのも、私にはひどく身勝手なことに思える。徹底した節電(節エネ)を前提として、原発はこのまま廃止。それが道だ。