明るい春の面白山



 何もする気にならない、と、神戸遠征もドタキャンしたのに、先週末は、前任校の山岳部引率で面白山(1264.4m)に行っていた。以前書いたとおり(→こちら)、古巣に変な口を挟んでいるような形になるのは嫌だなぁ、と思う。だが、その時にも、「私が行かなくても、少なくとも冬以外は活動に支障は無いだろうから」とは書いた。だから、すっかり冬というわけではないが、まだ積雪期なので、今回はまぁ仕方が無いとあきらめが付く。昨年のうちから、この二日間は空けておいて下さいよ、と言われていたのである。他の人、まして集団が関わっているとなると、自分の気分で安易にドタキャンもできない。もっとも、顧問2名のうち1名が、家族の具合が悪いと言ってドタキャンしたから、引率は1人の顧問と私。私がいなければ山行が成り立たないところで、珍しく、私に存在意義が感じられる山行となった。更に今回は、今春大学に合格した3年生も2名同行。後進に道を譲ることが出来る明るい気配にも満ちている。

 幸い、二日間とも無風快晴。

 夜は星空が素晴らしかった。天童の街の明かりも美しかった。夜中、テントの中で目を覚ますと、フクロウの鳴き声が聞こえた。「ホーホー、ボロスケボウボウ・・・」

 鳥を含めた動物の鳴き声をどのように表現するかを、「聞きなし」と言う。よく言われる有名な例は犬で、日本人は「わんわん」と表現するが、イギリス人は「バウバウ」だ。日本の犬とイギリスの犬の違いなのか、民族の「耳」の違いなのかよく分からない。だが、聞く人によってそれをどう表現するかは確かに違うのである。

 フクロウの鳴き声を「ボロスケボウボウ」と表現したのは、高村光太郎だ。光太郎は、『智恵子抄』にも含まれる「梟の族」という詩(1912年10月)の中で、声は聞こえるのに姿は見えない性質を利用し、梟の鳴き声で、光太郎と智恵子の恋愛を尾ひれを付けて語るゴシップを比喩した。そこで用いたのが、「ぼろすけぼうぼう」である。日本では古来(とは書いたが、いつからか不明。本当に「古来」かどうかも謎)、「ボロキテホーコー(襤褸着て奉公)」「ゴロスケホーコー(五郎助奉公)」などと聞きなされていたらしいが、これは、日本語として意味の通じる形に聞きなそうとするからこうなるのであって、純粋に耳を澄ませてみると、私には高村光太郎の「ボロスケボウボウ」が最もそれらしく聞こえる。

 昨日は、7時出発で、天童高原から面白山を往復。頂上での30分近い休憩を含めても、わずか3時間半でキャンプサイトに戻ってしまった。

 この季節、何を着て行くかにいつも悩む。晴れれば、日中は夏用ズボンにカッターシャツ1枚で十分、荒れたり冷え込んだりすれば冬と同じ。天気予報を見て、穏やかな二日間になると予想は付いていたし、キャンプサイトの標高は低い(650m)ものの、晴れれば放射冷却ということもあるし、やはり危険回避ということ考えると冬に近い方がいいかな、と思い、冬山用のアウターを着ていった。やむを得ないとは言え、これが失敗。夕方以降にじっとしていれば、カッターシャツの上にアウターを羽織ってちょうど良かったが、ひとたび山歩きとなると、アウターを脱いでいてもたちまち汗が噴きだし、まるで夏山合宿のような状態に陥ってしまった。

 短い山行の割に、暑さに苦しむつらい時間になってしまったが、それでも、快晴の雪山は美しい。春霞がかかり、遠景はかなりぼやけていて、鳥海山朝日連峰が見えなかったのは残念だったものの、それも含めて春山を堪能できた。テントを撤収して下山した面白山高原駅(440m)付近は、あちらこちらで地面も露出して、ぽかぽかと正に春。帰宅すると、水仙が一輪花を開いていた。