「ちい、ちい、ちい ── 」を読む



 水産高校では、毎月、新聞形式の図書館報『眺海』というものが発行される。そこには新任教員が順番に随想を寄せることになっていて、5月号は私の当番であった。私は以下のような文章を寄せた。


「かつて書いた『「高村光太郎」という生き方』という本の中で、私は、(注36)というところに一人の国語教師として若干の愛着を感じています。

 (注36)とは、「この解釈は、筆者(=私・平居のこと)が平成二年に宮城県女川高等学校の授業でこの作品を扱った際、生徒によって指摘されたものである。」というもので、これは高村光太郎の有名な「千鳥と遊ぶ智恵子」という作品に関わる部分です。


  人っこひとり居ない九十九里の砂浜の / 砂にすわって智恵子は遊ぶ。

  無数の友だちが智恵子の名をよぶ。/ ちい、ちい、ちい、ちい、ちい ──

   (中略)

  口の中でいつでも何か言っている智恵子が / 両手をあげてよびかへす。

  ちい、ちい、ちい ──

  両手の貝を千鳥がねだる。/ 智恵子はそれをぱらぱら投げる。

  群れ立つ千鳥が智恵子を呼ぶ。/ ちい、ちい、ちい、ちい、ちい ── (以下略)


 この時、光太郎の妻・智恵子は精神病を患い、正常な意識を失いかけています。「ちい、ちい」という言葉の、1回目と3回目は千鳥の鳴き声、2回目は智恵子の声です。千鳥は「ちい」を5回繰り返し、智恵子は3回ということに着目したある生徒が、「智恵子の意識が五分の三だけ狂っている。五分の二はまだ正常な意識が残っている」というような作文を書きました。鋭い着眼と解釈だと思います。この生徒は、有名大学へ進学するような、いわゆる「優秀な」生徒ではありません。しかし、いかなる評論家も文学者も考えつかなかったオリジナルな解釈を生んだのです。

 そもそも「詩」とは、誰でも知っている易しい言葉の組み合わせを工夫することによって、思ってもみなかったような情景や思いを表現する芸術です。「詩」だけではありません。今使っている教科書に載っているような作品には、評論でも小説でも、そのようなものが少なくありません。初めから、どこかの偉い作家が書いたものだから私には分からない、「文学」なんて自分とは違う世界のものだ、と考えず、作者の言葉に耳を傾け、作品の中から何かを見つけ出し、それによって人生をより豊かなものにしていこうという素直な気持ちと前向きな意識さえあれば、「文学」は豊かな感情と、生きていく上でのヒントを際限なく私たちに与えてくれます。そこで得られるものは、高校生だからしょせんこの程度、といったレベルの低いものでもないはずです。ささやかではありますが、(注36)はその一例となるでしょう。

 私は常に、諸君のそのような発見と感動に立ち会いたいと思いながら教室に行っています。」