静寂も闇も「自然」である



 週末は、例によって一高山岳部の諸君と山へ行っていた。今回は3年生の引退山行ということで張り切り、吾妻連峰を東(浄土平)から西(白布温泉)まで縦走するという、週末山行としては豪勢なものであった。

 幸い天気は上々。行程のほとんどは雪の上で、やや歩きにくく、生徒は少々バテ気味ではあったが、ほとんど人に出会うこともない静寂の中、磐梯山猪苗代湖、飯豊、朝日、月山、蔵王を遙かに眺めながら、最後は盛りの新緑にもどっぷり浸ることが出来たすばらしい山行であった。

 ところで、泊まったのは弥兵衛平小屋(通称:明月荘)という無人の避難小屋だった。同宿者は一組の夫婦だけ。私達と同じく浄土平から、道がないため夏には登ることの出来ない中吾妻山を越えて来たというなかなかの強者である。とても気さくで好感の持てる人たちだった。ところが、いただけないのは、彼らが始終、けっこうな音量でラジオをつけっぱなしにしていたことである。文句を言うか言うまいか迷いながら夜は過ぎてしまったが、翌朝も起きるなり再びラジオをつけたので、私はやんわりと文句を言った。彼らは、すぐに消してくれた。対応はさわやかだった。

 ここで私が文句を言ったのは、この場で私が不愉快だというだけの問題ではなく、彼らが今後もあちらこちらで同様のことをして欲しくないという気持ちが強かったからである。

 「自然保護」とか「山にやさしく」といった言葉を聞いて人がイメージするのは、たいてい「ゴミを捨てない」「花や木を傷つけない」ということだけのような気がする。この点に関し、私が日頃山を歩いていて気になるのは、どうしても必要とは思えない場面で、熊よけの鈴やラジオを鳴らしながら歩く登山者が少なくないことである。

 私は、静寂も自然、更には夜の闇も自然であり、公共の価値だと思っている。鳥のさえずりや風の音を味わうこと、星空を見ることが出来ることは、本来当たり前のことであり、それを邪魔することは立派な自然破壊だ。これは、山に限ったことではない。現代は、経済活動や安全確保の名の下に、よほど極端な場合でない限り、静寂や闇の価値はほとんど顧みられていないように私は思う。

 今や私達の生活は、多くの「自然破壊」の上に成り立っているので、「自然を守る」などという言葉には欺瞞的な雰囲気も漂う。だからといって、「自然破壊」を無制限に認めるのは極論だろう。「自然」はやはり最大限に尊重されなければならない。しかしその場合、「自然」を動植物や水、空気に限定するのは、生きるためにパンだけが必要な状態であって、情けない。「自然」の意味する範囲はもっと広い。