山の自分史



【後から書いた前書き】

 今年からワンダーフォーゲル部の顧問になった。ワンゲルというのは、周知の通り、本来「登山」という意味ではないが、いつの間にこうなったのか、世間では一般に、山に登ることを中心に考えるようであるし、我が石高ワンゲル部も、先だって生徒諸君に考えてもらったところによれば、登山を専らにするそうである。

 今回、文集の原稿として何を書こうかずいぶん悩んだが、昨年一年間ヨット部にいただけで、恐らくは山に最も親しんできた人間ということで担当となったからには、「我が山歴」とも言うべきものを書いて挨拶に代えようと思った。しかし、書き始めて思った。私にはたいした山歴などない。そして、自分の道筋を辿れば辿るほど、私はマウンテニアでもクライマーでもアルピニストでもなく、ワンダラーであった。以下、私の生い立ちからワンゲルに関係のあることだけを抜粋的に書き綴っておく。

【中学2年まで(名取在住期)】

 父は山好きな男であった。私が知る限り、「山男」というよりは「山歩き男」に過ぎなかったが、アルバムを見ると、ザイルを肩にかけてどこかの岩場に立っている写真があったりするから、曾てはそのようなこともやっていたのかも知れない。父の山行には、母が極めて渋い顔をしていたから、父が「山男」から「山歩き男」になったとしたら、それは母の力によるだろう。私は、山もスキーもこの父の手ほどきで始めたが、その始まりを覚えていない。幼すぎたからである。

 私は、読書に関して非常に早熟であった。小学校中学年の頃に、母に連れられて行った仙台市図書館で、大人の閲覧室に入れてもらえず腹を立てたのを覚えている。子供用の本の中に、私の関心を引きつける本は既になかった。その私が家の中で読んでいたのは、父の書架に並んだ山の本だった。そもそも、父の書架には、僅かばかりの歴史の本と仕事の本の他は、山の本しかなかったのである。

 私が生まれて初めて完読した「全集」(勿論、これは本当の意味の「全集」ではないが)は、「世界山岳全集」だった。そこには、J・ハントの『エベレスト登頂』、H・ブールの『八千米の上と下』などが含まれていた。この「全集」には含まれていないもので、H・ハラーの『白い蜘蛛』、R・テレイの『無償の征服者』なども、当時読んだ時の興奮を今に思い出すことが出来る。

 しかし、何と言っても熱中し、繰り返し読んだのは、芳野満彦の『山靴の音』であった。これは、新田次郎の『栄光の岩壁』を読んだのをきっかけに、その主人公のモデルとなった芳野氏の著書を父の書架に見つけ、手に取ったものである。ある一時期、私は明けても暮れても、寝ても覚めてもこの本を読んでいた。父が仕事から帰った時、私はいつもこの本を読んでいる最中だったので、毎日父が呆れたように「こいつまた同じ本読んどる」と言っていたのをよく覚えている。この本がなぜそれほどまでに私を引きつけたのか、はっきりしたことは分からない。しかし、この本の中で最も気に入っていたのが、どこの初登攀の記録でもなく、作者が冬の徳沢園の小屋番をしていた時の記録であったことは、その後の私と山との関わりを考える時、非常に示唆的であると思う。私は、これらの読書体験を通して、猛烈に山への憧れを膨らましていった。

 小学校4年生の夏だったか、母の友人であるTさんという方が、子供三人を連れて大阪から遊びに来た。長男はM君といい、私より6〜7歳年上だっただろうか。私は彼が好きだった。大阪の彼の家へ行くと、HOゲージの鉄道模型がいっぱいあって、遊ばせてくれたからだ。この夏、私は彼から『時刻表』の見方を教えてもらった。これは大事件だった。その後私は時刻表の虫となり、ノートを作って机上旅行にふけり、グラフ用紙にダイヤの線を引いた。また、この夏、彼らと十和田湖方面に旅行した際、陸中花輪の駅で蒸気機関車を追っていた彼の姿が妙に印象深く、私が、幼少の頃の乗り物好きとは少し違った、所謂「鉄道マニア」の端くれとなっていくきっかけになったように思う。残念ながら、私が高校に入る前後、大阪外大の学生であった時に、彼は自殺してしまった。

 『時刻表』体験によって、山に限らず、地理に対する関心が強まった時期、やはり父の書架で堀淳一の地図に関する著作を2〜3冊読み、地形図にも凝った。地形図を眺めては空想にふけっただけではなく、堀淳一を真似て自宅の地図を作ったりもした。中学2年の時、丸善の地図フェアで見つけた、スイス、ツェルマット付近の五万分の一の地図を、大金870円を投じて買い、飽かず眺めていたこともあった。

 また、私が地図に凝っていた時期は、たまたま、オリエンテーリングというスポーツが一般市民に知られ、脚光を浴びた時期に当たっていた。このスポーツに目を付け、まず熱中したのは父であり、間もなく私も取り付かれた。主催者の準備があまりにも大変なためか、今ではほとんど開かれなくなってしまったが、当時は宮教大に本部のあった県のオリエンテーリング協会が、1〜2ヶ月に一度大会を開き、市町村や国土地理院主催の大会もあった。今ある常設コースが作られたのもこの時期である。私は出ることの出来る全ての大会に出て、そのほとんどで勝ったし、常設コースも歩いた。おかげで、地形図を読むこと、コンパスを使って歩くことについての多くの経験を積むことが出来た。当時私は、二万五千分の一の地形図とコンパスさえあれば、地形図上に針先で示されたどこの一点にも正確に到達できると自惚れていた。この自惚れはやがて崩れていくが、それは自分の技術の限界を知ったことに加えて、二万五千分の一地形図が地形を描くことの限界を知ったことによる。

 小学校6年生の時からキャンプを始めた。いや、キャンプそのものは以前にも、親や友人の親に連れられるなどして行ったことはあったから、正確には、子供だけによるキャンプを始めたと言うべきである。同じクラスにG君という友人がいて、彼はボーイスカウトに所属し、テントを持っていた。小学生、或いは中学生だけとあっては、勿論親もいい顔はしないから、場所は小学校の野外活動施設「緑の広場」や、近所の公園に限られていたけれども、何とも言いようのないときめきを感じていた。キャンプを通して、火を焚くことを覚え、それが好きになった。私達がキャンプをしているのを見て、見ず知らずのおじさんがスイカを持って励ましに来てくれたことがあった。今にして思えば、それは差し入れを装って様子を見に来つつ、それとなく注意を促していたのだろうが、いきなり叱りつけたり、地域の問題としたりするのではなかったところに、その方の、若しくは当時のおおらかで包容力のある気風を感じる。

 最初に少し触れた通り、スキーは父の手ほどきで幼い頃に始め、その後も年に数回は連れて行ってもらっていた。スキーと言っても、リフトに乗るのは帰る間際の一回だけで、それまではひたすら歩いて上り、滑るのである。当然、歩いている時間ばかりが長かった。スキーは、確か、小学校5年生の時から友達と行くようになった。ただし、5年生の時は、あるきっかけで知った蔵王少年自然の家主催のスキー教室に、同級生数人と参加しただけである。6年生の時からは、お年玉を取っておいて、日曜たびに同級生と面白山に通った。私が最もスキーに熱中していた時期であるが、スキーが身近でありすぎたためか、かえって上達しようという意欲に欠けていた。

 さて、山のことに触れておこう。しかし、読書はともかく、地図や時刻表のことを見てもらえば分かる通り、私の心の中にあったのは、自分がまだ見たことのない広く大きな世界に対する憧れであって、山はその一部に過ぎない。実際、小学校の頃に名取→石巻→小牛田→名取と初めてオリジナルな鉄道旅行をしたのを皮切りに、時々鉄道旅行を企てるようにもなった。多少山に特別な思い入れがあったとすれば、それは海や平野よりも、山により多く未知なるものが含まれているように思われたからに過ぎないだろう。

 小学校の頃、家族でキャンプをして登った栗駒山や船形山が、大きな山に登った充実感の最初の体験に当たるが、それよりも、恐らくは昆虫採集に端を発し、その後の「地形図病」と結びついて頻繁になった低山徘徊の方が重要な経験であった。私は自分の足と自転車で行ける限りの山に登った。その対象は、名取市と村田町との境〜岩沼市一帯、或いは、せいぜい仙台市太白山当たりまでに限られていた。地形図で目標を定め、ルートをきめては登った。この時期一番印象に残っているのは、「千貫山脈縦走(自称)」である。地形図で、岩沼市の西端に小径のある山脈状の地形を発見し、どうしても踏破してみたくなった。自転車を金蛇水神社に置いて稜線に登り、尾根上を南下して千貫神社から平野に下り、尾根の西裏を北上して愛宕山への登頂を試みたが、藪がひどくて断念。尾根の北端を回って金蛇水神社に戻った、というものである。今、その跡を地形図でたどってみると、実に他愛もない山行である。しかし、これが全く独自のオリジナルな山行であったことを思うと、今、地形図の他にガイドブックまで頼って登る朝日連峰や飯豊連峰よりも、はるかに創造的な山だったのではないか、との感動と反省が胸に沸き起こる。

【高校卒業まで(兵庫県龍野市在住期)】

 中学校2年生の夏休み終了後、私は兵庫県龍野市に引っ越した。これは私の活動範囲を飛躍的に拡大した。単に引っ越したためばかりではない。この夏休み、私は咽頭部に良性腫瘍があるのを発見され、東北大学病院に1ヶ月あまり入院した。幸い手術で除去できたものの、再発の恐れがあるということで、検査のため、長期休暇のたびごとに東北大学病院に通うという義務が生じた。おかげで私は、兵庫から宮城まで年に三回、親の目の届かない旅行のチャンスが与えられた。私はお年玉などの臨時収入から数千円を出して、親が出してくれる仙台往復の費用に足し、東北周遊券を買った。当時は東北新幹線も開通しておらず、今に比べて急行がたくさん走っており、二十日間東北地方乗り放題、急行券不要の周遊券は正に伝家の宝刀だった。仙台で用事を済ませると、深夜、急行「八甲田」に乗って青森へ行き、あちこち歩いた後、急行「津軽」で山形へ、一日歩き回ってまた「津軽」で青森へ、などという無茶苦茶をしていた。旅館やホテルに一人で泊るには金も勇気もなかったし、駅でごろ寝をすれば補導の対象となる年齢だった。

 高校在学中は、同好の士が集まって鉄道研究会を結成。鉄道それ自体にも熱中した。高校2年の夏休み、北海道大学を見に行くと称して、友人三人と兵庫県姫新線本竜野駅から札幌駅まで、二昼夜かけて各駅停車だけで行ったことが懐かしい。ユースホステルに泊ることもこの時覚え、大学に入ってから会員になった。

 よく、旅行には二つの楽しみがあると言われる。見たことがなかった物を見る楽しみと、何かに挑戦し問題を一つずつ克服する、いわば冒険的楽しみである。私の場合、後者に対するこだわりが非常に強かったと思う。

 山は相変わらず父に連れられて少々と、自分自身による低山徘徊だった。前者では、根曲がり竹に苦しんだ「氷ノ山(ひょうのせん 1510m)」の印象が強い。後者では、平日は友人U君と共に、ひたすら藪こぎによる直登をしていた。低山徘徊も、年齢と共にスケールが大きくなり、休日に度々登りに行ったのが「雪彦山(せっぴこさん 916m)」である。この山は姫路市の北約30kmに位置する。高いとは言えないものの、東壁が頂上付近からすっぱり数百メートルも切れ落ちているなど、巍々たる山容は魅力的で、高さの割に登りがいもあった。そして、我が家から往復80kmの自転車。元気な盛りの高校生でも、日曜日に雪彦山を往復すると、十分な疲労感と満足感が得られた。この他、高校の夏休みキャンプ(?)で登った「大山(だいせん 1711m)」は眺望の素晴らしさで、仙台を訪ねた時に登った「大東岳」は、一人だけで登った初めての千メートル峰として印象に残っている。

 母校に山岳部はあった。U君が入っていて、日頃からボッカ訓練などしていたし、顧問はそれなりの専門家で、夏は毎年決まって南アルプスに行っていた。しかし、学期途中に大会だの山行だのと言っていた記憶がない。私は所属していなかった。四方八方へ芽を出した好奇心は、とてもそんな拘束に耐えることを許さなかったからである。

 キャンプは相変わらず続いていたが、目的ではなく、手段になった。中学3年の時から、Y君という友人の影響で天文学にも興味を持った。自分で口径6?の屈折望遠鏡を作り、より暗い空を求めて山に入った。高校入学時に遂に自分でテントを買い、月のない土曜日の夕方になると主に龍野市の山奥、新池という所へ行き、熱心に星を見、写真を撮った。キャンプに慣れていたおかげだと思う。

【大学時代(仙台在住期)】

 再び東北での生活が始まった。親元を離れ、自由は拡大した。山の本を読むのも相変わらず好きで、機会を見つけては山にもスキーにも行ったが、とりたてて見るべきものはない。小学校の頃、読書を通してロッククライミングや雪山を夢見ていた私が、それが実行可能な年齢に達してもあえて実行に移そうとはしなかった。理由はいくつか考えられる。前章にも書いた通りの極めて八方美人的な好奇心も問題だったし、机に向っている時間も長くなったが、それよりはむしろ、自分の山に関する趣味が見えてきたことに主な原因があったのではないだろうか。すなわち、人のいない山、豊かな森に覆われた深い山、というのが自分の好みだということである。だから、あえて岩登りをしようという気にもならなかったし、山岳雑誌で見る日本アルプスの行列登山などは全く願い下げだった。頂上に立つということもさほど重要な問題ではなく、四季折々に林間の小径を黙々と歩いていればそれで満足だった。停滞期と言ってよいかも知れない。またやがて、山に金も時間も費やせなくなるもう一つの大きな理由が生じるのだが、それは後で触れることにする。

 一つだけ、山の思い出を書いておく。大学何年の頃だったか、ある先輩と共に「朝日連峰」に行った。日暮沢から入山したのだが、稜線に近づくにつれて天候が悪化し、稜線に立ってからはほとんど暴風と言ってよいほどの状態になった。私がかぶっていた粗末なポンチョは破れ、全身が濡れた。歯の根が合わなかった。山の経験が浅い先輩も同様の状態で、かなり参っている様子だった。視界も悪く、非常に強い不安を感じ、時間がひどく長く感じられた。幸い時間がまだ早く、道標もしかっかりしていたために、やがて大朝日の小屋に逃げ込むことが出来るのだが、私はつくづく山を恐ろしいと思った。私は知識として、夏山でも凍死(失熱死と言うべきか)することがあること、それを避けるためにはどうしたらよいかということを知っていた。しかし、実感が伴っていなかった。この朝日の体験は、そのことをリアルに感じさせてくれた。これ以来、私はそれまでとは比較にならないほど慎重になったし、安全マニュアルを守るようになった。天候の悪化が決定的となった時点で引き返さなかったのも問題だった。「引き返す勇気」という言葉の重みを感じた。

 大学2年の夏、大事件が起こった。初めて外国へ行ったのである。私の行動の必然として、高校時代から是非一度外国へ行ってみたいと思っていたが、大学へ入ると、親が一度だけ行かせてやると言ってくれて実現した。三年次から中国哲学を専攻することが既に決まっていた私は、目的地に中国を選んだ。文化大革命は終わっていたが、人民公社は未だ解体されておらず、個人旅行は認められていなかった。私は、大学の先生の薦めもあって、語学研修をかねて西安外語学院に三週間滞在することにした。平日の午前中は中国語のレッスンで、午後と休日は学校の車でどこかへ連れて行ってもらったり、一人でバスに乗って出かけたりした。見る物聞く物珍しく、カルチャーショックも激しかったが、それよりも、旅行の楽しさを再認識したという思いが強かった。つまり、前章で書いた通り、旅行の楽しさの一つに冒険的要素、困難を克服する興奮というのがあると思うが、国内旅行でそれを味わうことは既に難しくなっていた。しかし、言葉が違い、生活習慣、社会常識の異なる外国の街を歩く時、忘れかけていたその旅行の楽しさが再び自分をとらえたのである。

 翌春、私はアルバイトなどで貯めた金でインド・ネパールを1ヶ月間訪ねた。初めての単身渡航で、前年の中国とは比較にならないほどの不安と緊張を持って出発した。カルカッタからダージリンへ向う列車の中で、Mさんという日本人建築家に出会った。彼はケニアのナイロビに飛行機で入り、ヒッチハイクサハラ砂漠を越え、八ヶ月余りかけて陸路でインドへ来ていた。私は彼と話をするまで、そのような大規模な世界旅行が、テレビ局などのスポンサーを付けることなく、個人の力によって為され得るとは思ってもみなかった。電力事情が悪く、電灯の滅多につかないダージリンユースホステルで、私は夢中になって彼の話を聞いた。彼の旅行に比べれば、私の旅行など児戯のようなものだったが、それでもこの旅行で私は外国を歩くことについてのささやかな自信を得たし、陸路で国境を越えることの興奮を知った。

 また、この旅行で私は初めてヒマラヤを見た。ダージリンからカンチェンジュンガを、カトマンズから飛行機でエベレストやマカルーを、ポカラからマチャプチャレやアンナプルナを・・・、どれも美しかったが小さかった。トレッキングに行きたいと思い、今に至るまで実現していない。

 帰国すると、保健の単位未認定で留年していた。親から仕送りも打ち切られ、授業もほとんどないに等しいので、アルバイトに精を出した。主に測量会社に通っていた。地形図狂だった私が、図らずもこの職に携われたのは奇遇である。夏には、1ヶ月半にわたって北海道えりも町の漁家に泊まり込み、昆布採りの手伝いをした。この時、初めて北海道の山に登った。「アポイ岳(810m)」である。高い山ではなかったが、高山植物の宝庫で素晴らしい山だった。

 九月に単位を取ると、十月から休学し、パキスタンに飛んだ。生活費がべらぼうに安かったから、手持ちの僅かばかりの金で何とか春まで暮らせると思ったのである。陸路で動き、一月にはイスラエルに入った。生活費を節約するため、キブツという集団農場で二週間半過ごした。二月に船でギリシアに入り、ヨーロッパを回って三月末に帰国した。小学校時代の低山徘徊以来の純粋な冒険だったと思う。バーソロミューの中近東地図を一枚持っていただけで、ガイドブックもなく、旅行者や、現地の言葉を少しずつ覚えては現地の人から情報を得ながら一カ所ずつ進んでいった。懐具合による制約も過酷だった。ヨルダンでは、写真撮影のトラブルから警察に捕まり、留置場に放り込まれるという経験をした。旅行の方法としてヒッチハイクを覚え、トルコやヨーロッパでは多用した。現地の人との出会いが面白かったし、ヨーロッパのような交通費の高いところでは旅行費用節約の効果が絶大だった。一ヶ月間滞在し、病気になって苦しみ、原理的なシーア派イスラム教国家としてカルチャーショックも大きかったイランと、キブツで生活したイスラエルについては、帰国後、大学の友人の勧めもあって記録を書き、冊子にした。今も手元にある。

 大学院生だった頃に、韓国、台湾、香港、そして再び中国を訪ねた。そして、大学院の前期課程を出て就職までの間に、四ヶ月だけ時間を取って中南米を縦断した。広い舞台の割に時間が極めて短く、あわただしい思いをしたが、比較的快適で楽しい旅行だった。治安は悪かったものの、中東に比べれば宿や食べ物も良かったし、ブラジルに入るまでは国境をいくつ越えても言葉が変らない(スペイン語)というのはありがたかった。自然も変化に富み、人類の文化遺産も多かった。ペルー、ボリビアでは初めて高山病を経験した。高山病というのはまず頭痛だと思っていたが、そうではなかった。標高四千メートル前後のアンデス山中で、それは頭脳作業力の低下(日記や手紙が書けない)、消化不良などの全身症状として二三日かけてじわじわと現れ、回復に一週間ほどかかった。チリの最南部パタゴニア地方では初めて間近に氷河を見た。壮絶な青さだった。エル・サルバドル、ニカラグア、ブラジルなどでは、政治の問題についてもあれこれ考えさせられた。

 これら一連の海外体験は、主に帰国後に集中的に行った訪問国についての勉強の成果も含めて、膨大な財産として今の私の中で生きていると思う。

【教員になってから(石巻在住期)】

 インドへ行く時は戦々恐々だった海外旅行も、すっかり慣れてしまい、中南米から帰ってきた時には国内旅行と同様、海外旅行でも冒険的興奮は感じにくくなっていた。そして、帰って来て就いた教員という職は、思ったよりもはるかに多忙でストレスのたまる職業だった。四十連休かと思っていた夏休みも、部活や文化祭の準備でつぶれ、連続して一週間の休みを取ることは難しかった。パック旅行に行くのでなければ、海外へ出ることは困難となった。その結果、内外を問わず、旅行のスタイルは大きく変化した。【高校卒業まで】の章で書いたもう一つの楽しみ、すなわち、歴史や文学的な関心によって見たいと思った物を見ることを、その主たる目的とするようになった。

 また、赴任する時に後輩から車を譲り受け、短い時間で非常に柔軟な移動が可能になった。その結果として、山へ行く回数は学生時代よりも大幅に増えた。とはいえ、それは日帰りや一泊程度の短い山行であり、ルートも同じ道の往復や限られた周回コースが中心となった。普通のルートで登るのであれば簡単な山でありながら、公共交通手段があまりにも高くて不便であるためにそれまで二の足を踏んでいた山は多かった。「五葉山」や「(新庄)神室岳」「白神岳」など、東北のめぼしい山々で、こうして初めて登ったという山は少なくない。

 三年前に父が定年を迎え、再び名取に住むようになったのをきっかけに、年に一度ほど父の山行に(さすがにもう「連れて行ってもらう」のではなく)「付き合う」ようになった。最近父は、今はやりの「日本百名山完登」というのをノルマにしていて、私にはそれが大変情けないのだが、おかげで昨年は「利尻岳(北海道 1719m)」に登らせてもらった。私が山のためだけにわざわざ東北の外へ出るのは珍しい。

 教員になってからの上述のような山行について、当初私は満足していた。しかし最近、いささかの疑問を持つようになっている。今回これを書きながら、ますますその思いを強くした。小学校時代の低山徘徊や大学時代の海外旅行に比べ、創造性、冒険性がなさ過ぎるからである。このような山行でよいのかという自問は、自分はなぜ山に登るのかという根源的な問いに帰着する。答えを何か一つに絞り込む必要はないだろう。しかし、あれこれ考えて、自分なりに納得のゆくスタイルというものを今後見出して行ければ、と思っている。(生徒諸君をそれに巻き込むという意味ではなく)、ワンゲルの顧問になったということが、そのための良いきっかけとなればなお良いのだが・・・。

(以上、1996年2月記、部誌『岳生』に掲載)