危うき人工環境

 昨日の続きである。
 さて、登山の競技大会というものをはなから馬鹿にしている私であるが、以前から、読図審査だけは点数を取れないと絶対にまずい、と生徒にしつこく言ってきた。歩いて行くとフラッグ(オリエンテーリング用のポスト)が何カ所かぶら下げてあるので、それがどこかを地形図に記入していくという審査である。
 ところが、今回2日目、生徒と一緒に歩きながら、私は8つあったフラッグのうち、2〜3を除いて位置がどうしても分からなかった。登山における様々な技術のうち、自分の得意分野があるとすれば読図だろうと思っている私としては、由々しき事態である。もっとも、大会は全員が大きな隊列を組んで移動しているので、フラッグの場所で立ち止まることが出来ない。そのことが読図の難度を大きく引き上げているのは確かだ。また、最近は審査員がGPSを持っているので、それに基づいてフラッグを設置し、勝手に「読める」と思い込んでいるのではないか?という疑心暗鬼も生じている。
 下山後、審査員に答えが記入された原図を見せてもらった。う〜ん、厳しい。と同時に、これはまずいぞ、という思いが兆してきた。私がまずいのではない。審査のやり方が、である。これなら、生徒に高得点を求める必要はない。
 と言うのも、審査員が見せてくれた地図は、私が持っている地図と似ても似つかぬものだったのだ。それは、予め担当者がGPSで登山道の場所を確かめ、2万5千分の1地形図に載っていない道まで含めて、極めて正確に登山道を書き込んだ特製の地図であった(以下、謹製地図と呼ぶ)。そう言えば、参加者に対して事前に、市販の地形図は使うな、高体連登山専門部のHPからダウンロードした地図を使え、とのお達しが出ていた。使っているカラープリンターの性能が悪く、明瞭にプリントアウト出来なかった私は、そのお達しを無視して市販の地形図を持参した。だからなおのこと分からなかったのだ。
 やっぱり白黒でもいいからプリントアウトするのだった、とは思わない。こんな地図がなければ山に登れなくなったら大変だぞ、と思った。あらゆる山について、正確無比な登山用地図が流通しているということなどあり得ない。どうしても2万5千分の1地形図で登らなければ、登れる山は限られてしまう。市販の登山地図だって、カバーしている山域は決して多くない。まして、そんな謹製地図を持ち、1度ならず下見をした上で、ようやく場所を確認できるようになったところで、いったいどんな意味があるだろう?
 2万5千分の1地形図は、確かに不正確な部分をたくさん含んでいる。特に登山道についてはかなりデタラメだ。信じられないことに、今回歩いた由緒ある信仰登山の道、すなわち姥沢〜ネイチャーセンターの道だって載っていない。だが、そういうものなのだ。幸いにして今の地形図は、等高線は正確で信頼に値すると言ってよい。道があれば、載っていなくても、等高線を始めとする地形情報から、その道がどのあたりを通っているのか判断できないと困る。実際の道が地形図の記載とずれている場合、そのズレに気付けなければ困る。謹製地図の上でのみ1ミリ単位で場所が確認できても、それは人工環境の中で純粋培養されたひ弱い子どもとおなじことであり、クリエイティブな山登りには通用しない。それで読図審査で満点を取ったとして、自分たちに読図能力があると誤解することは、逆に危険なことでもある。
 人間は便利な物を持つと使わずにはいられず、使えば能力が退化するという悪循環に陥る。楽と便利を私は信じない。それらはすべて、人間か地球環境のどちらかをダメにする。そんな私の口癖が、今回も頭の中をぐるぐると回り始めた。