「可能性を信じる」対「予防が大切」・・・高校入試考



 昨日、終業式があり、今日は人事異動の新聞発表。幸か不幸か、私は宮水に残留である。だいぶ「燃え尽き症候群」の雰囲気があるのだけど、来年はどんな年になるのやら・・・?

 高校入試も、20日に二次試験の合格発表があって、それで全て終わり。明日は予備登校で新入生が登校する。そう言えば、最近あちらこちらで高校入試が話題になるのを耳にした。それで、少しきわどい話になるのだが、高校入試について思う所を整理しておきたいと思うようになった。

 何しろ「入試」である。不合格者が出る。定員を上回る受験者がいた場合には、不合格者が出るのは当然であるが、定員割れを起こしていれば全員合格するかと言えば、必ずしもそうはいかない。ここが問題なのである。

 定員割れ状態で不合格者を出すと、世の中の人々から、冷酷非道だ、適格者主義をやめろ、と文句を言われる(らしい)。公立高校であれば尚更、入学を希望する生徒は、全て合格させるべきだというのである。高校全入のご時世、不合格になった生徒の傷つき方はひととおりではなく、その後のケアやフォローがたいへんだ、という事情もあるのだろう。一方で、全員合格させると、これまた文句を言われることがある(らしい)。あんな生徒でも合格できるとなれば、高校の評判が下がる、下の学年の生徒が真面目に中学校生活を送らなくなる、まじめに高校生活を送ろうとしている生徒にとって迷惑だ、というような理屈である。つまり、学校内外、全ての人が納得するというのはなかなか難しいことなのだ。

 私は、理念上、定員の許す限り合格させるべきだという立場である。おそらく、例によって絶対少数派だ。ただし、今あえて「理念上」と書いたのは、それが理想論に過ぎないという事情も理解できるからである。

 入試の点数にしても、調査書の内容にしても、それが生徒の資質や中学3年生までの全生活の反映であるのは確かだ。入試の点数については、足りなければ、中学浪人すれば伸びることが期待できるが、それ以外の要素については動かない。中学浪人も、口で言うほど簡単なことではないだろう。だから、中学校生活を失敗した生徒は、痛切に後悔と反省をして、高校に入ってからは頑張ろうと決意を新たにしても、そのチャンスを得ることができない可能性がある。私には、これがいいとは思えない。

 人間はいくら失敗しても、常に新たなチャンスを得て、心新たにやり直しながら、自分を伸ばしていくことが出来るべきだと思う。だから、たとえ極悪非道、もしくはぐうたらを極めた中学生活を送ったとしても、「今度こそ頑張ろう」という意欲を期待し、将来へ向けてチャンスを与えてあげる必要はあるのではないか?高校入試で不合格になった場合、その理由が明らかにされないだけに、不合格という現実によって自分の至らない所を知り、生き方を変えるということも難しい。おそらくは、強烈な挫折感と劣等感だけが残り、その後の人生を完全に狂わせることにもなる。

 一方で、入学後に勉強しない生徒、学校の規則を守らない生徒、人の勉学の邪魔をする生徒に関しては、2週間単位くらいでチェックして、必要に応じて保護者も含めて警告し、1〜2ヶ月も続くようなら容赦なく退学を命じて構わないと思う。チャンスを与えたにもかかわらず、そのチャンスを生かして自分を伸ばそうとしない生徒に対して、任意の勉学の場である高校が振り回されてはならない。この場合、退学させられた生徒は、自分の問題点を自覚・反省し、その後の人生に生かしてゆくことが可能だ。

 ところが、ここからが「理念上」と書いた理由になるのだが、一度受け入れてしまった生徒を退学させることは、今の学校では至難である。私にはなぜだかよく分からない。確か文科省は、重大な問題行動を起こして授業に出せない生徒にも、学習権を保証するために、課題や補習等の配慮をすることさえ求めている。無茶苦茶だと思う。義務を果たさず、学習意欲もあるとは思えない人間に権利を保障するため、ただでさえも忙しい教員が、更に煩雑な思いを強いられるのである。そのツケは善良な生徒にまわる。

 以前書いたことがあるが、生徒や親がいくらデタラメでも、今の学校は常に(形式的に)完璧であることを求められ、いささかでも遺漏があれば、生徒にも親にも強いことが言えない。こうして学校が落ち着いた学びの場でなくなった時、本来責められるべきは、少なくとも建前上は「勉強したい」と言って高校に進んでおきながら勉強しない生徒であるはずだが、実際には、教員の側が「指導力が無い」として批判されることになってしまうのである。だから、ナイフで人を刺したといったような極端なことでもない限り、いくら素行不良の生徒でも、退学を命じることは出来ず、教員は大きなストレスを感じ、膨大な時間外勤務をしながらながら振り回され、周囲の生徒も迷惑に耐え続けなければならないということが起こり得る。

 こうなると、とりあえず入れてチャンスを与えろ、という意見は、白い目で見られるようになってしまう。そして高校教員は、危険な臭いのする生徒を、できる限り入学前の段階で阻止したいという思いを持つようになる。

 しかし、入試におけるわずかばかりの資料で、本当に高校入学後の生徒の動向が判断できるかと言えば、そんなことがあるはずない。いや、いくらたくさんの材料があったとしても、将来へ向けて人間の可能性を判断することなど不可能だ。実験できないので確かめられないが、落ちた生徒の中には、教室あるいは学校を引っかき回すことになった生徒も含まれているかも知れないが、真面目に生まれ変わって勉学に励んだ生徒もいるだろう。事前に予防的措置を講ずるというのは、なんと罪の重いやり方であろうか。

 だが、やはり責められない。責めたところで、責めた人は、その生徒が合格していろいろな形で学校に迷惑をかけた場合、責任を取ってくれないのはもちろんのこと、援助・協力をしてくれることもないからである。

 少子化と仙台への一極集中によって、仙台市内以外では、定員割れの学校だらけの宮城県である。おそらく、学校の中にはこんな揺れる思いがあり、全ての教員が葛藤を抱き続けている。解決するためには?・・・入学した生徒に対して、学校が強大な権限を行使できるようにすることがどうしても必要だろう。