上意下達が活力を奪う

 今年の人事院勧告が出た。国家公務員試験の受験者が減っていることに対する危機感を反映させたものだそうだ。あれれ、受験者が減っているとはどこかで聞いたような話だな、と思う。そう、教員採用試験についてよく言われることである。人事院は、初任給の引き上げや、週休3日を可能にする勤務形態の導入などを政府に勧告したという。ああ、やっぱり全然分かってねえなぁ、とため息をつく。
 5年前にも、東大法学部生がキャリア官僚になりたがらないという報道があって、それについて一文を書いたことがある(→こちら)。
 私がその時材料にした2018年8月5日付け読売新聞記事で、東大名誉教授・北岡伸一氏は東大生の官僚離れの原因として「国家の運営に携われるという使命感と満足感を得ることが難しくなっている」「財政状況が悪くて新規事業が組めない上、政治優位の中で官僚が正しいと信じる政策がなかなか受け入れられなくなっている」ことを指摘していた。
 私はそれを正しいとした上で、「難関を突破してキャリア官僚になり、自己犠牲を払って激務に耐えても、それの仕事がアホな政治家の命令を遂行するだけだったり、更にはその尻拭いをすることだったりすれば、バカバカしくてやっていられない、と思うのは当たり前」だと書いた。
 教員も同じである。新しい学習指導要領で高校でも導入された観点別評価を始め、とにかく上からの命令で仕事は増え、しかも、なぜそんなことをしなければならないのか、現場の人間には理解できない(→参考記事)。そういうことに振り回されているうちに、自分の教育的信念に基づいてやりたい、やるべきだと思うことはできない。そんな状況の中で、教員の精神疾患や離職者の増加もなり手不足も生じてくる。
 教員の世界で多忙が問題となった時に必ず出てくるのは、教員をもっと増やせという話だ。教員を増やすことはよい。しかし、私は根本的解決にはならないと思っている。いくら教員が増えて、多少仕事を分散させられたとしても、結局その仕事が「やらされる」仕事でしかなかったら、仕事に対する満足度は上がらない。悪いのは多忙それ自体よりも、多忙の質だからだ。
 どちらにしても、権力者が、働き手自身の問題意識や誇りを尊重せず、有無を言わさず自分の指示に従わせようとした結果、働き手の活力を失わせ、そこに参加する意欲をさえ失わせる。そして、そんな事情を知りつつ公務員・教員になりたいと思う人がいるとすれば、何も考えずに、お上の言いつけに従うことこそがコンプライアンス意識の高い立派な公務員・教員だと考える人であり、それは主体的な思考ができない人であるはずだ。そんな人だけが、給与を多少引き上げたり、休日数を増やしたり(←しかも、週あたりの勤務時間は変わらない=笑)することで、「じゃあ、公務員・教員にでもなろうか」と思うようになるのではなかろうか?そして、そんな人が採用されれば、公務の現場も教育の現場も更に悪くなって行くに違いないのである。悪循環というやつだ。人材は、まず第一に仕事そのものの魅力によって集めなければ、本質的ではないのだ。
 なぜ安定職の花形である公務員になりたがらないのか、その原因が政府には全く分かっていない。だから、対策なるものを立てれば立てるほど、実行すれば実行するほど物事は悪くなってゆく。
 「なに、平居ごときが勝手なことを言いやがって」と思うのはよい。しかし、国がよかれと思って何をやっても、現実が逆の方向に向かっている以上、「自分たちのやり方は根本的に間違ってるんじゃないか?」と考え直すことができないのは愚かであろう。