林の教育実践について・・・林竹二『教育亡国』をめぐって(2)



 林は、自分の思い描く教育のあるべき姿を訴えるために、自分の授業実践を何度か持ち出す。そして、予習を前提とせず、その場で子供に問題を突きつけて、裸でその問題に取り組むことを要求すると、全ての子供が本当に喜んで学習し、いわゆる「学力」の差は消えてなくなる、と言う。

 しかし、私は、その実践に素直に頭を下げるわけにはいかない。なぜなら、林の実践は、ある極めて特殊な条件の下に成り立っているからである。

 林は、「ぼくは林先生に、べんきょうをおしえられていて、はじめて、人間はいったいなんなのかというぎもんをかんじた。林先生に、ぼくは、このいち年間、人間のことをおそわりたかった」という小学6年生の感想を引いて当惑を示した上で、次のように当惑の理由を書く。「方々の土地の方々の学校で、私は二百四、五十回くらいは繰り返して人間についてという授業をしている。だが、それは相手が違うからできるので、同じ子どもたちが相手だとなると、話がまるで違ってくる。くり返しにならないように、一回ごとに内容を展開させるためには、その都度教材開発の仕事に取り組まねばならなくなる。そうなると私の全力を傾注しても、年にせいぜい四回か五回以上は無理だろうと考えた。」林はこの後、上記の感想を書いた生徒が、どのような生徒であるか電話で学校に問い合わせ、「成績は3の下くらいで、勉強する気のない子です」という回答を得た上で、感想文を根拠に、この生徒が「勉強する気のある」ことを主張する。ここには、学校のやり方が悪いから生徒の勉強する気を認められないのであって、自分のようなやり方をすれば、そうではないのだという主張があるだろう。しかし、林にしても、そのような授業は同じ生徒相手に年に4〜5回が限度なのである。また、林は授業の後で感想文は書かせているが、試験は実施していない。これも重要な点である。

 まず最初に、授業の回数の問題を考えておこう。

 私は、今まで、一般の人が学校の授業一般について批判するのを耳にしたことが何度となくある。その多くは、例えば「かくかくしかじか(TVのクイズ番組に出て来るような内容)」のようなことを教えれば、生徒はこの教科に興味を持って取り組むのではないか(教師はそういうことも出来ないのだろう、バカだなあ)、というようなものであった。私は表面上「はいはい」と拝聴しながら、心の中で「あなたは「かくかくしかじか」に入る内容を、150時間分用意できますか?」と思っている。現在の学校は、高校の場合、一人の教科担任が、毎週1〜5回も同じ教室に出入りして授業をしている。林自身が「まるで違う」と言う通り、これは、年に数回生徒の前に立つのとは、質的に全く異なる異次元の世界なのである。

 次に試験の問題だ。

 私が授業をしていて、「いい授業が出来た」と充実感を持てる時というのは、生徒が「分かった」というよりは、「一緒によく頭を使い考えた」という時である。おそらく、林も同じだ。これは、結果よりも過程に意味を感じている証拠である。さてこの時、この授業の成果をどのような形で「試験」に出題すれば、この授業の中で彼らが行ったことの価値を評価できるかというと、私は途方に暮れてしまう。テストで評価できるのは、結果であって過程ではない。だから、自分にとっていい授業が出来れば出来るほど、義務として実施を求められている「試験」に私自身が苦しむことになる。良心の痛みと言ってもよい。

 林は、「ペーパーテストでは、授業の中で、子どもたちがどれだけまともに問題に取り組み、自己との格闘を経験したかを「測る」ことはできないのです。私は、いわゆる客観テストでは教育的に意味のあることは何一つ測ることはできないと考えています。」と述べる。私は概ね同意する。しかし、「何一つ」というのは言い過ぎだ。

 中国に「小学」と「大学」という言葉がある。簡単に言ってしまえば、「小学」とは「六芸(礼楽書射御数)」と言われる基礎科目、或いは訓詁注釈(文字や言葉の意味)を学ぶことであり、「大学」とは人格の陶冶と理想政治の実現を目指す思考のトレーニングだ。「小学」とは「読み書きそろばん」、「大学」とは「政治・哲学」と考えてしまえば分かりやすい。林が一貫して授業で目指すべきと考えているのは「大学」であるが、現在の授業では、相当なウェイトで「小学」の学習も求められている。

 私も「大学」により一層の価値を感じていること林と同様である。しかし、「小学」の価値を否定する気にもならない。なぜなら、林のような優れた(?)教育者が、うまく授業で手引きをした時だけ、「人間」について考えられるというようでは、本当の学習主体として成長できないからである。情報を見ながら自分で問題を探し出し、考え、それを更に深めるためにまた新たな情報を手に入れる・・・といった作業によって、人は自立した考えが出来るのであり、そのためには「小学」は避けて通ることが出来ないものだからである。しかも、古く遡って学校というものの成り立ちを考えてみると、学習の中心は「小学」にこそあったのではないだろうか?「教」や、「学」の字の原型である「斅」には「ぼくにょう」という部首が用いられているが、これは、生徒の隣で鞭を振り上げている恐ろしい先生の形象だ。「大学」を学ぶ場所にそのような存在は不要だろう。そして、この部分に関しては、「ペーパーテスト」で何かを測ることもある程度可能であろう。林がそういったことに興味を示さないのは、林がもともといわゆる優等生であって、読み書きそろばんなど、さほど意識しなくてもよくできたからであろうと私は思う。

 だから、私は林の論があまりにも一面的で極端なものだと思うと同時に、学校という枠から自由であるが故に主張し得る、非常に呑気で身勝手なものに見える。

 しかしながら、だから林はケシカラン、と言い切ることも出来ない。林にもこのような事情が分かっているからこそ、文部省(文部大臣)が支配する、「形式」としての学校教育を批判しているとも考えられるからである。果たして、悪いのは林の考え方なのだろうか、今の学校システムなのであろうか?(つづく)