リバイバル:履修取り消し(2)

(承前)

☆一高って何だろう?

 このことは、臨時生徒総会で生徒諸君も多少は考えてくれた。私もその議論を思い出し、また、7月の卒業アルバムの個人写真撮影の際の、「一高生はいったいいつからこんなことを面白がるようになったんだろう?」という某一高OB教師の言葉も一つのきっかけとして考えてみた。
(ブログ用の注:一高生は卒業アルバムの個人写真を、激しい仮装・変装をして撮りたがる。衣服だけではなく、顔へのペインティングやカツラもあって、誰が写っているのか分からない写真も多い。それが「こんなこと」である。)
 あれこれ調べてみて思ったのは、「一高」はすばらしい、ということである。他の学校が受験指導にシフトしていく中で、もっと本質的な学問をすべきだと、金曜セミナー、土曜セミナーという特別講座を開いて、先生がニーチェやカントを講じ、生徒も学ぶことに真剣でありながら、破天荒でもあった。
 思うに、「一高」の本質とは、①節度ある自由、②本当の学問への希求、であり、そこでは、ごく一部の例外を除いて、無断欠席や遅刻、欠課が横行することはなく、生徒はまじめに勉強し、しかも、受験勉強にあくせくする生徒、受験知識ばかりの先生は軽蔑され、様々な分野に秀でた生徒がお互いに高め合っていた。今、諸君が誇る有名なOBは、こんな中で高校時代を過ごした人たちだ。

☆そこから今を考える

 生徒諸君もここまで読んできて感じるのではないか、と思うが、どうも今の一高は形だけを受け継いで、最も大切なところは捨ててしまったのではないか?同時に、生徒は「自由」を履き違え、自分たちの都合のよいように濫用しているのではないか?
 そして、そうなった理由を繰り返し考えながら、私は再び、前に書いたこと、特に受験への価値の一本化、それによって、他のことは疎かにしてしまった大人の責任を感じるのである。卒業アルバムの個人写真が、現在のような一体誰が写っているのか分からないものに急変してゆくのは、20世紀末、1998〜2000年頃からなのであるが、丁度この時期に、「教務部」という教員内組織で「進路係」として小さく存在していた一種の受験対策係が、「進路指導部」として独立し、強大化への道を歩み始めた。それは、果たして偶然だろうか?

☆まとめ

 私は大学受験なんてどうでもよい、と言っている訳ではない。ただ、学校が何にも増して重視するようなことではなく、学校にはもっと大切な機能があるだろう、まして一高では・・・と言っているのである。私は常に、今のことが諸君の30年後にとっていいか悪いか考えたいと思っている。そして今の一高生にとって大切なのは、「受験に不要だから政経や日本史は勉強しなくてよい」という論理ではなく、「今までに学んでいないことは全て学ぶ」という論理だと信ずる。週に3時間の授業を受けることで失うものなど、話にならないほど些細なものである。
 自分が今までどんな高校生活を送り、どのように勉強してきたかも振り返ってみて欲しい。今、履修を取り消したいと大騒ぎをするのは、7月上旬に指示されながら作業をしてこなかったクラス壁画について、間に合わないから授業をつぶして作業をさせてくれ、と言うのと大同小異であろう。
 担任ごとの温度差については、制度上の問題なので言っても仕方がない。教務部(主任:K教諭)にでもねじ込んでみるとよい。来年度からなら、変わらないとも限らない(笑)。
 とにかく、私は諸君に、もっと広く、もっと大きな世界へ向けて学んで欲しいのである。
(以上)


 いくら説明しても、分からない生徒には分からなかった。私は最後までハンコは押さなかった。彼らは(全部ではなかったと思うが、率は憶えていない)、落第しない程度に授業を欠席するという実力行使に出た。何人かの生徒は、その後半年を経ても怒りが収まらないらしく、最後の最後までつむじを曲げていた。もちろん、私には後悔や反省のようなものは一切ない。彼らは今頃何を考え、どのように生きているだろう・・・とは時々思い出す。そして、一高がその後どうなっているだろうか?ということも。卒業した生徒は何かに気付き、考えているということもあるだろうが、一高は更に悪くなっているだろうな・・・?(完)