一高を惜しむ(離任の弁)



 今日、辞令交付式(着任式)なるものがあり、私は正式に宮城県水産高等学校の教諭となった。既に一高での生活は過去形となったが、なぜ今年、私が一高を去る決意をしたかということは、「教育」という問題を考えることにもなるので、明らかにしておこうと思う。以下は、この数日の間に、各所で述べた「ご挨拶」を合成、補足したものである。

(私の教育観や一高観については、このブログの2007年1月29日、同3月1日、同6月10日、2009年3月3日等の記事を併せて参照して欲しい)

 私はこのたびの異動で、宮城県水産高等学校に勤務することとなりました。

 仙台一高は今春から共学校となりました。共学一期生の学校生活に立ち会えなかったことと、山岳部顧問の後任が配置されなかったことは、一抹の心残りとなっておりますが、異動そのものは、赴任先も含めてほぼ自分の希望によるものです。

 その理由は、一つに、往復3時間半にも及ぶ通勤が、自分自身の負担というよりも、幼い子供を育てていく上で、妻の大きな負担となっているであろうこと、二つに、一高が年々「受験」という功利的な価値観に強く支配されるようになっていることが、私自身の一高観・教育観と相容れず、苦しさとも罪悪感とも言うべきものを強く感じるようになっていたこと、三つ目に、前任地であった石巻高校以来、世の中のある特殊な階層の生徒だけを相手にしていることによって、自分自身の社会観が狭く、ゆがんできているのではないかという問題意識によっています。

 一つめの理由に説明は不要と思いますし、私にとって最も深刻な理由は二つ目ですので、それを中心に、若干の補足をしたいと思います。

 人が仕事をする時、それによって収入を得、生活を成り立たせることは大切ですが、そのためだけに仕事をするわけではありません。社会貢献や自己実現こそが意識の中心に置かれるべきであり、収入を得ることを最前面に押し出すことは、浅ましく下品な態度であると思います。しかし、昨今の一高では、何のために学ぶのか、ということが疎かにされ、ひたすら受験、受験ということ、○○大学に何人合格ということだけが言われるようになっています。これは、前の仕事の例えで言うなら、「金、金」と言いながら仕事をしている状況です。一高生がどれほど優秀で、どれほど社会のリーダーになっていくのか分かりませんが、よく言われるように、彼らがそれほどの人材であるならば、なおのこと、そのような目先の、しかも功利的な価値観に基づいて打算的な教育をすることは、将来の社会全体へ向けての「悪」であるに違いありません。

 現実に、一高生の質的変化は深刻です。しかし、子供が先に変化するということはありません。変化が子供の責任であるということもないでしょう。一高教職員の打算的で近視眼的な教育の成果として、今の一高生の変化はあります。59回生の時は、天下国家や学問芸術について、授業中にも放課後にも、生徒と今よりもはるかに多く語り合うことが出来ました。だから私は、「必要悪」若しくは「手段」としての受験勉強に付き合う気になったのです。62回生では、それがほとんど不可能となり、結果、私はただ流れに棹さすだけのような言動を取るようになってしまいました。私にとっても、生徒にとっても不幸なことだったと思います。

 私は、他県の高校出身者として、望ましい一高の教員であるために、一高とは何かということを意識的に勉強し、「一高」という学校が大好きになりました。だから、私の考え方が現在の一高と相容れないからといって、直ちに異動を決意したわけではありません。現在の一高に、私のような、学校は現実的必要性よりも理念と理想とを優先させるべきだ、という考え方の人間が必要であるのかないのか、私なりに葛藤し、自分が一高を愛し、その現状に問題を感じればこそ、外側からの批判者になるのではなく、内側からの抵抗者になるべきなのだ、という信念を得て、そのために微力を尽くしてきたつもりです。しかし、理想と現実のズレがひたすら大きくなり続けている上、私が一高で過ごした7年という時間は、自らに呵責を感じず、また「逃げ」だと批判されないための十分な時間であり得るのではないか、との思いを持ちました。

 私は、一高に勤務することが決まった頃、前任校の何人もの同僚から、「あなたに一高は非常に似合いだ」と言われました。一高に来てからも、名誉なことに、保護者や同窓生から「あなたはとても一高的な人だ」と何度も言っていただきました。それが本当であるかどうか、私には分かりません。しかし、それが仮に本当だとして、一高的であろうとすればするほど、或いは、一高の精神「自重献身」(校訓)「自発能動」(標語)を大切にしようとすればするほど、一高の現状と逆の動きをせざるを得ず、苦しむことになってしまうというのは皮肉なことです。思えば、一高に来て数ヶ月後、当時私が所属していた3学年(56回生)の学年主任S先生から、私は「先生は非常に一高向きな人ですね。だけど、来るのが遅すぎました。なぜなら、最後の一高生は54回生だったからです」と言われたことが、最近、繰り返し頭をよぎります。「最後の一高生」とは何か、そんなものが存在するのかどうか、存在するとしても、果たしてそれが54回生なのかどうか、これも私には分かりません。しかし、仮に54回生が「最後の一高生」だったとすれば、それは、その時期に教員の質、或いは学校の体質の変化が決定的になったということでしょう。私がこの言葉に呪縛されていたとは思いませんが、結果として、私は7年がかりでその言葉のある種の真実性を検証してきたのかも知れません。私がどこで教員をしていようと構いません。しかし、自分の子供を入れたいと思える学校が、遂にこれで無くなったのではないか、との思いは困ったものです。

 とまれ、一高での7年間は、以上のことを別にすれば、私にとって公私ともに最上の時間であったと思います。3年生の副担任を振り出しに担任として2サイクルし、その間、生徒諸君と保護者の方々、同僚の寛容と好意とに支えられ、学校の流れには沿わないながらも、ある程度は自分なりの理念に基づいて活動することができましたし、一高の精神たる応援団の顧問を5年間にわたって務める栄誉に浴し、一高山の会の皆さんに仕事を超えたお付き合いをしていただき、二人の子供が生まれ、家を改築し、一冊の本と一本の論文を世に出し、15年間患ったC型肝炎が治癒した、そういう幸せな7年間でした。

 ところで、昨年私が書いた論文は、中国の近代史に関するものですが、1930年代から40年代の中国の知識人は、共産主義運動や日中戦争のため、民衆との接近ということに心を砕いています。民衆をどのように動かしていくか、民衆にどのように接近し、民衆と問題意識を分かち合えるか・・・、「格差社会」と言われる今日、そんな知識人のあり方に私は関心を持っています。

 昨秋、異動を希望するに当たって、校長に「一高と出来るだけ性質の違う学校に行かせて欲しい」という希望を述べておきました。新任地の宮城県水産高校は、名指しで希望した訳ではありませんが、そんな私にとって願ったり適ったりの学校です。それは、一つに、受験若しくは学歴などというものが、それだけでは何の力もない、いわば虚構の価値観であるのに対し、農業や水産業、工業といったものは地に足の着いた学びの対象であると思うからです。生徒の何割が、本当に水産業を学ぶために入学してくるのかは知りませんが、少なくとも専門教科の教員は、抽象的な学問だけをしてきた人とは違う、「何か」真実を知っているような気がします。もう一つに、離任式で生徒諸君に対して自分自身の問題意識として述べたこととも、昨年の私の論文の内容とも重なりますが、石巻高校や一高のような特殊な階層の人々の世界から脱して、今後しばらく研究を続けたいと思っている中国近代の知識人の問題を、我がこととして実感的に考えてみたい、そのチャンスがあると思うからです。あまりにも異質な世界に行き、当然、苦労はあることと思いますが、これらのような期待を持って異動できるのは幸せなことです。

離任に際し、不平不満めいたことをあれこれ述べてしまい、大変申し訳ありませんでした。この7年間、これに類する放言を繰り返してきたにもかかわらず、先生方には誠に大きな「寛容」をもって接していただき、本当に感謝しております。最後になりましたが、皆様の今後益々のご健勝を祈念して、挨拶とさせていただきます。